現代にも多くのファンを持つ、幕末に活躍した「新選組(しんせんぐみ)」。実は、新選組の活動が幕末のたった5年間というのは意外ですよね。






今も多くの人に愛される理由の一つに、個性的な組長たちの存在があります。そこで今回は、組長たちの人物像と終焉の時をクローズアップして紹介します。





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幕末の志士たちを震え上がらせた新選組!10人の組長たちの終焉を紹介【前編】




新選組組長の人物像と終焉の時 一番隊から五番隊まで





隊士達から尊敬される新選組の組長は、隊を牽引する存在です。新選組には10人の組長が名を連ね、京の治安維持のため日夜警護にあたりました。隊を牽引するのは並大抵のプレッシャーではなかったでしょう。そんな組長たちの終焉の時を紹介します。





沖田総司 一番隊組長



沖田総司は、近藤の秘蔵っ子ともいえる存在。近藤が道場主を務める天然理心流の道場「試衛館」の塾頭でした。10代で免許皆伝。近藤らとともに浪士組として京に上り、新選組一番隊組長に抜擢されます。剣の腕は、隊で永倉と1、2を争うほどの強さで、有名な「池田屋事件」にも参戦。隊の撃剣師範も務めていました。
不逞浪士の取り締まりや隊内の粛清にも、幾度もその剣が振るわれたと言います。





沖田の終焉



「池田屋事件」の際に肺結核の発作を起こしますが、その後も任務は忠実にこなしていきます。しかし、無理がたたったのでしょう。戦線離脱することも多くなり、千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅の離れで療養しましたが、病状が悪化しそのまま静かに息を引き取りました。天才剣士の儚い27年の生涯でした。





永倉新八 二番隊組長



永倉新八は、「試衛館」の食客でした。10代で神道無念流の免許皆伝。近藤らとともに浪士組として京に上ります。やはり撃剣師範として沖田と1、2を争う剣の遣い手でした。「池田屋事件」では獅子奮迅の働きをし、鳥羽伏見の戦い・甲陽鎮撫隊にも加わりました。しかし、甲陽鎮撫隊で敗走後新選組と袂を分かち、「靖共隊(せいきょうたい)」に参加。会津まで転戦し隊を離れ、結局江戸にもどりました。






永倉新八の終焉



永倉は、その後北海道の松前藩の帰藩が許され家督を相続。晩年は小樽で悠々自適の生活を送ります。大正4年に77歳で病没しました。永倉は新選組の語り部として「浪士文久報国記事」を書き残し、回顧録を「小樽新聞」に連載し「新選組顛末記」として出版。また、東京板橋に新選組の慰霊碑も建立。新選組の汚名返上に尽力したのです。





斎藤一 三番隊組長



沖田や永倉と並ぶ新選組の剣の遣い手であった斎藤一は、新選組の創立期に入隊しました。沖田や永倉と同じく撃剣師範として3番隊組を率いています。流派は「無外流」。しかし、その他のことは未だ謎だらけです。新選組では戦いの最前線にその身を置き、幾多の修羅場をくぐり抜けました。任務に忠実でスパイ活動も。
会津では、新選組隊長として土方と別れて会津に残り戦い続けました。





斎藤一の終焉



会津落城後は、警視局に警部補として就職。その後結婚し3人の子供にも恵まれます。近年斎藤一の晩年の写真が見つかりました。晩年になっても衰えない眼光の鋭さが印象的です。





幕末の志士たちを震え上がらせた新選組!10人の組長たちの終焉を紹介【前編】
斎藤 一(Wikipediaより)



胃潰瘍のため71歳でその生涯を閉じましたが、死の間際を悟り正座をして絶命したそうです。研究者の間では、子母澤寛の「新選組遺聞」の記述にある斎藤一口述の「夢禄」の発見が大いに待たれています。











松原忠司 四番隊組長



柔術師範として四番隊組長を務めた松原忠司。自身で創設した流派の北辰心要流柔術を操るほど柔術家として凄腕の持ち主で、新選組の前身である浪士組の時に入隊した古参の隊士です。性格は温厚で、池田屋事件や八月十八日の政変(尊王攘夷派の公家と長州藩を朝廷から追放したクーデター)での活躍が記録に残っています。





松原忠司の終焉



松原忠司は、四番隊組長となって2カ月後に平隊士へ降格され4カ月後には死亡。享年30歳。
一体何が起こったのでしょう?降格の理由もはっきりした死因もわかっていません。切腹未遂があったらしいですが、こちらも理由がはっきりしていないのです。事件がらみの不祥事とも殺害した浪士の妻を囲っていたのを土方に咎められたとも。





その後、切腹未遂の傷が悪化して死亡したと言われていますが、真相はわかっていません。いろいろな説で共通しているのは切腹が未遂に終わったこと、平隊士に降格になったことのみです。その他の説としては心中などもありますが、真相は闇の中です。





武田観柳斎 五番隊組長



甲州流軍学を収めた武田観柳斎は、浪士組から新選組に代わるころに入隊しました。局長の近藤勇に重宝され、五番隊組長と文学師範に就任。その上新選組軍師としての地位も確立します。新選組での活躍実績も多数残っていますが性格的に問題があり、近藤や土方にあからさまにこびへつらう人物だったようで、永倉などからは敵視されていたそうです。
幕府がフランスの軍事訓練を取り入れると、新選組で武田の軍学は古いものとして疎んじられ、次第に居場所を失っていきました。





武田観柳斎の終焉



武田観柳斎は隊での居場所を失い、新選組からの脱退を申し入れ受理されます。
その後は同志たちと手を組み、独自の勤王活動を行ったり新選組に害を及ぼす金策活動を行ったりしていました。しかし、新選組に察知され同士ともども暗殺される結果に。享年37歳。武田観柳斎の死には、薩摩藩への出入りを隊士に見つかり暗殺されたとの説もあります。





まとめ





前編では、新選組の一番隊から五番隊までの組長の終焉の時を紹介しました。新選組組長で寿命を全うできた人物がいたのは意外ですよね。





いろんな終焉がありましたが、新選組組長として一瞬だったとしても、まばゆい光をはなったことは間違いありません。





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幕末の志士たちを震え上がらせた新選組!10人の組長たちの終焉を紹介【後編】
幕末の志士たちを震え上がらせた新選組!10人の組長たちの終焉を紹介【前編】




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