戦後日本の経済成長を支えた「新幹線」は、太平洋戦争で人間爆弾と恐れられた殺戮兵器「桜花」の技術をもとに設計されたことはご存知でしょうか。

桜花の開発に加担したことを悔いた開発者メンバーのひとりは、戦後日本で鉄道事業の発展に尽力しながら平和を追求。
その過程で「新幹線」を開発したそうです。

今回は、新幹線誕生のルーツとなった人間爆弾・桜花について紹介します。

■大量虐殺兵器・桜花

1941年12月7日~1945年9月2日まで続いた「太平洋戦争」において、日本軍が導入した特攻専用航空機が「桜花」でした。

片道切符の特攻…太平洋戦争で大量の死者を続出、人間爆弾と恐れ...の画像はこちら >>


桜花(出典:Wikipedia)

太平洋戦争末期の沖縄戦で、55人の軍人が桜花に乗り込んで特攻。無人機と違って、人間が最後まで操縦して突撃するため、ヒットして敵を撃破できる確率が高かったそうです。

■特攻隊

特攻とは、軍用機や潜水艇に操縦者が搭乗したままターゲットに突撃する攻撃方法のことを指します。

太平洋戦争時の日本は、この特攻専用パイロットを育成。特攻部隊に選ばれた軍人の家族や親族は、片道切符と知りながら「お国の名誉」と称えて子どもを送り出したそうです。

とくに航空特攻を担った「KAMIKAZE(カミカゼ)」は、戦後80年が経過した現在も知られています。



■なぜ特攻は必要だったのか

1941年12月8日、日本軍はイギリス領マレー半島とハワイ・真珠湾の同時奇襲攻撃作戦を開始。翌年にはミッドウェー海戦やソロモン諸島を巡って消耗戦となり、熟練パイロットや戦闘機を多数消失したうえ、工業生産力に勝るアメリカ軍に追い詰めらてしまいます。

そこで、日本軍の上層部は「通常攻撃では歯が立たない」と判断し、特攻でしか勝ち目がないと考えるようになったのです。


1944年10月、第一航空艦隊司令長官に着任した大西瀧治郎中将は「神風特別攻撃隊」と名付けた部隊を編成します。これが、初の特攻専門組織の結成でした。

その後、特攻隊の活躍により敵の主力艦隊や航空機の撃破に成功し、特攻は攻撃の要として導入されるようになったのです。

■沖縄本土戦

1945年3月、沖縄本土に50万もの敵軍隊が侵攻を開始しました。これは、国内唯一の地上戦で、日本史上最悪の戦争といわれるものです。

沖縄本土で生活していた一般市民は、弾丸の雨(鉄の雨)の犠牲となり、沖縄本土戦での合計死者数は20万人以上。

また、この戦争では多くの特攻隊が動員され、沖縄本土戦の最終日には陸海合わせて300機以上もの戦闘機や爆撃機が特攻しました。

その部隊の中に桜花もいたと考えられます。

桜花の開発に携わった開発メンバーのひとりは、兵器の開発を悔やみ当時の経験を活かして新幹線を開発するなど、後世の平和のために尽くしました。

戦時中には悲しくも兵器として使用されてしまった科学技術が、現代では仕事時間を短縮したり旅を楽しんだりする便利な新幹線の開発に生かされています。今後は科学の力が、便利で生活を豊かにするもののみに使われることを願ってやみません。

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