前編では、父親の松倉重政の暗君への変貌を解説しました。後編では父を上回る程の暗君松倉勝家(まつくらかついえ)の常軌を逸したおこないと末路について紹介します。






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江戸時代、極めて非人道的な政策で「島原の乱」を引き起こした愚かで無能な藩主・松倉親子の愚行【前編】
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江戸時代、極めて非人道的な政策で「島原の乱」を引き起こした愚かで無能な藩主・松倉親子の愚行【後編】
島原陣図屏風 戦闘図(秋月郷土館蔵)



松倉重政の急死





松倉重政はルソンへの海外出兵の船が出港した5日後に、小浜温泉(長崎県雲仙小浜にある温泉)で急死します。享年57歳。この死には、多くの暗殺説があります。誰に暗殺されてもおかしくないほどの所業が、暗殺説の一番の理由です。





しかし、重政の後を継いだ松倉勝家は父を上回るほどの暗君でした。





2代目暗君松倉勝家の行動





2代目藩主を継いだ松倉勝家は暗君と言われていますが、実際領民に対してどのような搾取や弾圧、刑罰を行ったのでしょうか?松倉勝家の行動についてみてみます。






領民への尋常ではない搾取



松倉勝家の領民に対する異常なまでの搾取は、次のような方法でおこなわれました。







  • 父と一緒に石高に対して分不相応な築城を進め、年貢の過重負担や過重労役。




  • 島原藩の財政を健全化するため、領民に対して「九公一民」(税率9割)の税負担を課する。




  • 飢饉で税収が下がったため、赤ん坊税、生存税、死亡税、改築税 、畳税、墓穴税など人間の生から死までのすべてに税を課した。




領民はこのような搾取をされれば税金を払えなくなり、生きていくこと自体危ういものとなります。松倉勝家は父をも越える暗君として常軌を逸した行動にでたのです。






領民への厳しい処遇とキリシタンへの弾圧



江戸時代、極めて非人道的な政策で「島原の乱」を引き起こした愚かで無能な藩主・松倉親子の愚行【後編】
雲仙地獄の殉教図 モンタヌスの「日本史」より



松倉勝家の異常な搾取によって、領民は税を納められなくなります。勝家は、年貢や税を納められなくなった領民や村の責任者から人質をとるようになり、さらに厳しい処遇を課していきます。拷問にかけたり水牢に裸でいれ続け絶命させたり、悪行の限りを尽くしたのです。





また、父と同様にキリシタンにも非道な弾圧(拷問や処刑)を行いました。





領民やキリシタンの我慢もとっくに限界を越えていました。1637年10月25日、遂に領民は代官所を襲撃し代官を殺害します。
それが島原藩内に拡大し、天草にも飛び火して島原の乱へと発展するのです。











松倉勝家の末路





島原の乱は4カ月続き、幕府側の総攻撃によって鎮圧されます。総攻撃と処刑によって籠城していた37000人全員が死亡。内通者1名のみが生き残るという悲惨な結末でした。幕府側も1万人程の死傷者がでたと言われています。





島原の乱鎮圧後、松倉勝家は島原の乱発生の原因の罪に問われます。
勝家は、幕府のキリシタンに対する弾圧を守っただけと無罪を主張します。しかし、勝家の屋敷の桶から領民の死体がでてきたことが決め手となり斬首刑に処せられます。享年41歳。





暗君として非道の限りを尽くした松倉勝家は、江戸時代を通じて切腹すら許されず、罪人として斬首となったただ一人の大名という末路でした。





まとめ





今回は前後編で江戸時代最悪の暗君親子、松倉重政と松倉勝家について紹介しました。





領民やキリシタンに対する親子2代でのあまりにも非道なおこないは、人間としてあるまじきものでした。
平和が260年続いた江戸時代に、こんな常軌を逸した暗君がいたことに驚くばかりです。



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