大河ドラマ『光る君へ』で話題沸騰中の紫式部ですが、長徳4(998)年の春、紫式部は藤原宣孝と結婚しました。
紫式部、結婚に踏み切る!ふられてもラブレターを送り続けた藤原宣孝の一途さ…「光る君へ」でどう描かれる?
当時、式部は29歳、宣孝は49歳くらいだったのではないかと言われています。

大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより
『紫式部集』には、結婚間もない頃と考えられる和歌のやりとりが収められています。
折りて見ば 近まさりせよ 桃の花 思ひぐまなき 桜惜しまじ
(桃の木を折ってその花を近くで見ると、離れて見るよりも美しいでしょう。あなたを思いやらない桜など惜しくはないのです)
この歌で式部は「桃の花」を自分にたとえて、「桜」を宣孝の妻の一人にたとえたと考えられています。その意味は、「私と結婚したあなたは、『思っていたよりもずっといい女だ』と気づくでしょう。あなたを思いやらなかった方なんて惜しくはありませんよ」ということだろう、と。
これに対して宣孝は、次のように返しました。
ももという 名もあるものを 時の間に 散る桜には 思い落とさじ
(もも〈百〉という名なのだから、百年咲き続けるのだろう。すぐに散ってしまう桜より劣っているなんて思わないよ)
と返しました。「君は桜よりよっぽど魅力的だ。百年間、添い遂げましょう」という想いが読み取れますね。
ちなみに、国文学者の上原作和(うえはら・さくかず)氏は、この歌の「ももという名もあるものを」に着目し、紫式部の本名(幼名)は、「もも」だったのではないかという斬新な説を発表しています。

桃の実
■夫婦ゲンカ勃発!
一方、式部と宣孝は結婚して間もない頃(結婚前という説もあります)、派手な夫婦喧嘩を演じました。
原因ははっきりしていないのですが、式部が、それまでに書き贈っていた手紙を「ぜんぶ集めて返せ」と要求してきたのです。その時のメッセージがこれです。
ありし文ともとり集めておこせずば返り事書かじ
(私が贈った手紙をすべて集めて返さなければ、もう返事は書きません)
理由は、おそらく宣孝が式部からの手紙を他人(妻の一人)に読ませていたことが発覚したからではないか、とされています。
すると宣孝は「皆おこす」(すべて返す)と返事を寄こしましたが、そこには恨み言が添えられていました。そこで式部は、
閉ぢたりし 上の薄氷 解けながら さぼ絶えねとや 山の下水
(暖かくなって、閉ざされていた谷川の薄氷がようやく解けたのに、その流れを絶えてしまえとおっしゃるのですか)
「やっと打ち解けた関係になったばかりなのに、その縁を絶とうというのですね」という意味です。
これを受けた宣孝はどう思ったのでしょうか。彼が次に返事をするまで、少し間が空きます。

源氏物語石像
■紫式部、タンカを切る
宣孝はしばらく経ってから次のように返しました。
東風(こちかぜ)に解くるばかりを底見ゆる 石間の水は絶えば絶えなむ
(春の東風で解けるほどの氷ならば、底が見える石間の水は、絶えるなら絶えればいい)
と返してきました。「打ち解けていたのは私だけで、あなたの愛情は底が見えるほど浅かったのですね。そんな関係であれば、絶えるなら絶えてしまってもいい」という意味だと思われます。
これに加えて、宣孝は「今はものも聞こえじ」(もう何も言わないよ)と伝えてきました。
見ている方もハラハラしてきますね。それでも式部は慌てることなく、こうタンカを切りました。
言ひ絶えば さこそは絶えめ なにかその みはらの池を 包みしもせむ
(絶交すると言うのなら、そうしましょう。あなたが腹を立てていたって、私は慎むことはありません)
さすがにこれには宣孝も慌てたようで、しばらく時間が経ってから、
たけからぬ 人かずなみは わきかへり みはらの池に 立てとかひなし
(立派でもなく、人並みでもない私が、あなたに腹を立てても勝ち目はありませんね)
と、降参したのでした。二人の喧嘩は、紫式部の勝利で幕を下ろしたのです。

京都府宇治市宇治川ほとりの紫式部像
平安時代の貴族たちは、こんな美しい言葉と歌のやり取りで夫婦喧嘩までしていたのか……と驚かされる一方で、紫式部という女性は教養があるだけではなく、豪胆さも持ち合わせた人だったことが分かりますね。
参考資料:
歴史探求楽会・編『源氏物語と紫式部 ドラマが10倍楽しくなる本』(プレジデント社・2023年)
トップ画像:大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより
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