大河ドラマ『光る君へ』で話題沸騰中の紫式部ですが、彼女の結婚には悲劇が待っていました。
紫式部、結婚に踏み切る!ふられてもラブレターを送り続けた藤原宣孝の一途さ…「光る君へ」でどう描かれる?
紫式部、ホームシックから結婚を決意。

まずは結婚直後のエピソードから見ていきましょう。
結婚から数カ月後、夫の藤原宣孝は、衛門府の役人である右衛門佐(うえもんごんのすけ))という官職に加えて、山城守(やましろのかみ)に任ぜられました。出世したのです。
山城守となった宣孝は、時の最高権力者である藤原道長との接点を持つようになりました。

藤原道長
式部との結婚の翌年、長保元 (999)年の11月には、道長の娘である彰子が一条天皇の女御となりました。その際、宣孝は祝いの席の警護を担当しています。
続いて同年、豊前国の宇佐神宮(大分県宇佐市)への奉幣使(使者)も任ぜられ、道長から直々に指図を受けて一条天皇に拝謁。それから豊前に向かい、翌年2月に帰京しました。
紫式部が長女・賢子を出産したのは、宣孝が帰ってきたこの年、長保2 (1000)年だったと考えられています。
ところが、幸せな日々は長続きしませんでした。このあたりから宣孝と式部の関係はぎくしゃくしてきます。
■冷える夫婦仲
結婚前にはあれほど熱心に式部に迫っていた藤原宣孝ですが、次第に彼は式部の家に顔を出さなくなったのです。
宣孝は複数の妻を持っていましたが、その中でも一番若い式部の家に、結婚当初の宣孝は足しげく通っていました。その足が、だんだん遠のいていったのです。

宇治川沿いの紫式部像
結婚したとは言っても、当時は夫婦は同居せず、夫が妻の住む屋敷へ通う通い婚の形式が主流でした。宣孝がやって来るのを家で待つしかなかった紫式部。『紫式部集』には、その頃の彼女の歌が収められています。
しののめの 空霧りわたり いつしかと 秋のけしきに 世はなりにけり
(夜明けの空に霧が立ち込めて、早くも秋の景色になりました。あなたは早くも私に飽きてしまったのですね)
横目をも ゆめと言ひしは 誰れなれや 秋の月にも いかでかは見し
(浮気などしないと言ったのは誰だったでしょう。秋の月をどのように〈どなたと〉見たのですか)
入るかたは さやかなりける 月影を うはの空にも 待ちし宵かな
(あなたのお目当てが他の女だとわかっていたのに、私はあなたを上の空で、ずっと待ちわびていました)
という歌を贈ると、宣孝はこう返します。
さしてゆく 山の端もみな かき曇り 心も空に 消えし月影
(訪ねようと思ったのですが、あなたの機嫌が良くなく、行けなかったのです)
式部はやがて、こんな心境になります。
たが里も 訪ひもや来ると ほととぎす 心の限り 待ちぞわびにし
(ほととぎすは、誰の里にも訪れるといいます。私も一心に待っていたのですが、あなたは現れませんでした)

二人の関係が修復されることはありませんでした。しかも、宣孝の別れはある日突然にやって来たのです。
【後編】の記事はこちら
紫式部と夫・藤原宣孝の間に訪れる悲劇…。悲しみを乗り越えあの世界的古典が生み出される【後編】

参考資料:
歴史探求楽会・編『源氏物語と紫式部 ドラマが10倍楽しくなる本』(プレジデント社・2023年)
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan