江戸時代に行われていた参勤交代について、皆さんは学校でどのように習いましたか? ネットでの解説などを読んで、その「真の目的」について学んだという人も多いかも知れません。
ご存じの通り参勤交代は、各地の大名たちが江戸に屋敷を構えてそこに妻子を置き、多くの家臣を連れて地元と行き来するという制度です。
園部藩参勤交代行列図(一部)南丹市文化博物館蔵・Wikipediaより
この制度が設置された目的については、長らく次のように説明されてきました。
「幕府に逆らえないように各藩の経済を疲弊させるため」
実際、江戸幕府は戦国時代のような殺伐とした世の中にしないために、あの手この手を使って大名たちの力を削いできました。参勤交代制度も、その一環だったという説明です。
しかしこのような説明は、今の教科書には全く出てきません。これはなぜでしょう?
■東大も否定
実は、参勤交代という制度には「幕府に逆らえないように各藩の経済を疲弊させるため」という目的はありませんでした。
このように書くと奇をてらった説のように感じられるかも知れませんが、実際、1983(昭和58)年の東京大学の「歴史」の入試問題でも次のように書かれています。
参勤交代が、大名の財政に大きな負担となり、その軍事力を低下させる役割を果たしたこと、反面、都市や交通が発展する一因となったことは、しばしば指摘されるところである。しかし、これは参勤交代の制度がもたらした結果であって、この制度が設けられた理由とは考えられない。どうして幕府は、この制度を設けたのか。戦国末期以来の政治や社会の動きを念頭において、5行(1行30字)以内で説明せよ。参勤交代は確かに各藩に経済的負担をもたらし、軍事力の低下を招きました。その一方で、都市交通の受ける経済的便益も大きくなったわけです。
しかし上記の引用からも分かる通り、既に40年前に、それらが「この制度が設けられた理由とは考えられない」と東大もはっきり述べているわけです。

東大赤門前
経済的負担・軍事力低下・経済発展はあくまでも副次的な「結果」でしかありませんでした。いわば偶然にそういう結果が生じたというだけです。
■徳川家光も「規模縮小」を求める
そしてまた、江戸幕府の三代将軍である徳川家光も、寛永令(1635)年に武家諸法度で以下のように記しました。
大名小名在江戸交替相定ムル所ナリ。毎歳四月中、参勤致スペシ。ここまで挙げた内容だけでも、参勤交代制度の目的が「幕府に逆らえないように各藩の経済を疲弊させるため」ではなかったことが分かるでしょう。
従者ノ員数近来甚ダ多シ(中略)
且ハ人民ノ労ナリ。 向後ソノ相応ヲ以テコレヲ減少スベシ。
(大名・小名は江戸に在住し、ときに交替することを定める。毎年4月には参勤すべし。従者の員数は近頃は非常に多く、民の負担となっている。今後は相応に規模を縮小せよ)

家光が祀られている輪王寺・大猷院霊廟本殿
では、そもそもなぜ参勤交代という制度は生まれたのか? その目的は何だったのか? それらは【後編】で解説します。
【後編】の記事はこちら
江戸時代の参勤交代制度の“真の目的“とは?「各藩の経済力を削ぐため」は俗説で40年前に否定されていた【後編】

参考資料:浮世博史『古代・中世・近世・近代これまでの常識が覆る!日本史の新事実70』2022年、世界文化社
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