17世紀半ば、徳川の世が天下泰平に向かうなかで江戸幕府を震撼させたのが、慶安事件——由比正雪の乱です。
ご存じ、首謀者である由比正雪は、生活に苦しむ浪人を集めて幕府を転覆させるという革命を企てました。
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その計画は、まずは駿府(現・静岡市)の久能山に向かい、徳川家康の遺産を強奪します。そしてその資金によって全国から浪人を集めて軍を起こすというものでしたが、事前に発覚して計画倒れに終わりました。正雪は幕吏に取り囲まれて自害しています。

徳川家康が祀られている久能山東照宮
しかし、この事件によって名前だけは知られている由比正雪ですが、彼がいわばこの「革命」を志すまでの経緯は、はっきり分かっていません。
その経緯は何だったのでしょうか。それを知る手掛かりは、彼の生い立ちと来歴にあります。
■「非武士」から軍学者へ
もともと彼の出自は武士ではなく、駿府宮ヶ崎町の紺屋のせがれだったと言われています。農民の子だったとする説もあるようです。

正雪の生家とされる染物屋「正雪紺屋」(静岡市清水区由比地区・Wikipediaより)
伝わるところによれば、正雪は十七歳のときに江戸に上り、軍学を学びました。その師は楠不伝といわれ、名将・楠木正成の子孫とされる人物です。
正雪は、そのもとで楠流軍学を習得しやがて江戸・神田連雀町の裏屋を借り、軍学指南として独立しました。彼の楠流軍学は江戸で評判を呼びました。
当時、江戸では小幡景憲の甲州流軍学や北条氏長の北条流軍学が評判でしたが、由比正雪の楠流軍学は目新しく、また「高砂やー」などと謡をまじえながらの講義が面白かったようです。
そんなこともあり、正雪の道場には旗本や大名の家臣、浪人らが続々と集まってきました。
■もともとあった幕政への疑問
しかし正雪の道場に人が集まったのには、もう一つ理由がありました。彼の道場は人材斡旋センターのような機能も果たしていたのです。
多くの浪人は、正雪に大名家への仕官の斡旋を期待していました。大名家の家臣ともつきあっている正雪ならそれが可能だったのです。
さらに正雪は、自らが稼いだお金で困窮する浪人を養いもしました。彼は軍学者であり、福祉家でもあり、行政とも繋がりがある人材斡旋業者でもあったわけで、複数の顔を持っていたのです。
一方、そんな中で正雪は、浪人問題の深刻さや、仕官できる者とできない者の格差、旗本・御家人らの貧窮ぶりなどを痛切に知ることになります。そして幕府の無策に憤りました。それが、正雪に革命への道を進ませるきっかけになったと言えるでしょう。
自らが書き残した著作もないため、正雪の心の動きは推し量るしかないのですが、このように当時の状況からある程度は伺い知れます。
そうした傍証の中でも興味深いのは、彼は幕府との繋がりがあったにも関わらず、大名からの軍学者としての招きには最後まで応じなかったことです。
唯一、弟子にした大名は板倉重昌のみでした。小雪は彼以外の大名を弟子にはせず、もっぱら大名の家臣以下を弟子としていたのです。

板倉重昌(Wikipediaより)
大名とのつながりができれば軍学者としてさらに箔がつくにもかかわらず、そうしなかったのは、やはり当時の幕政に相当の疑問を抱いていたからでしょう。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia
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