「働き方改革」によって、現代日本では会社組織も、また就業している個人もかなり意識改革が進んだところがあるようです。「社畜」などという言葉も一瞬だけ流行しましたが、最近は早くも使われなくなってきましたね。
もしかすると、多くの日本人は、現代の日本人は働きすぎであり、古代はもっとのんびり働きながらスローライフを送っていたに違いない……というイメージを抱いているかも知れません。
しかし、大昔の人々の生活は現代よりも優れていたはずだ、という考え方はある種のユートピア思想に過ぎません。今回は、奈良時代の官僚たちがどのような働き方をしていたのかを見ていきましょう。
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東京都府中市にある武蔵国府跡(Wikipediaより)
奈良時代、官位が五位以上であれば、働いても働かなくても収入が保証されていたようです。しかし、六位以下の下級役人は懸命に働かなくてはなりませんでした。
当時、下級役人は3,600人ぐらいいたようです。そのうち常勤職員である長上官が600人、非常勤職員である番上官は3,000人くらいだったと考えられます。
これが長上官なら年間240日、番上官なら140日出勤することで評価の対象となり、給料をもらえることになっていました。
常勤職員の場合は、現代の週休二日制の公務員と同じくらい出勤していたことになりますね。
■恐怖!残業も泊まり込みもあった
奈良時代の役人の朝は早く、大宝律令の注釈書である『古記』によると、朝六時半には出勤していなければならなかったようです。

その中で、正規の就業時間は午前中の三~四時間程度。
当時の下級役人の勤務日数が記されている史料によれば、午前中の勤務である「日」印とともに、午後の残業印である「夕」も数多く残っていました。
つまり下級役人は残業を強いられていたのです。また、中には泊まり込みで仕事をする役人もいたようです。
現代では、官僚というと一般のサラリーマンから見れば「エリート」であり羨ましい存在ですが、残業・長時間労働・パワハラと、その勤務実態はかなり過酷だと言われています。そうした状況は古代から変わっていないんですね。
■年収を副業で補う
さて、そんな下級役人たちの勤務評定ですが、彼らは勤務態度・道徳性・才能・失敗の有無などを上司からチェックされ、長上官なら九段階、番上官なら三段階の評価を受けていました。

古都奈良の文化財・興福寺の五重塔
評価期間は、長上官なら六年間、番上官なら八年間で、評価が中等以上なら官位を一ランクを上げてもらうことができました。こうして彼らは昇進することができたわけです。
ただ、下級役人はたとえ昇進できても年収の上昇カーブは緩やかで、正七位に昇進しても年収500万円にも満たなかったようです。
かように、さほど収入が上がらないので、家族が農業を営んでなんとか暮らしを立てていたというのが実状だったようです。
古代から、日本人は「社畜」と呼ばれても仕方ないような働き方をしていたんですね。もしかすると、現代の「働き方改革」は古代からの歴史の中でもかなり画期的な政策だったのかも知れません。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia
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