奈良の正倉院といえば、古代の宝物が集められたタイムカプセルのようにイメージする人も多いでしょう。
正倉院(Wikipediaより)
正倉院は東大寺大仏殿の西北にある建物です。
それ以降もたびたび献納が行われ、現在でもそれらの品々がまとめて保管されています。
こうして正倉院に集められた遺品には、服飾品・楽器・調度品・刀剣など、さまざまなものがあります。中には大陸から伝わった宝物も含まれているため、正倉院はシルクロードの終着駅だと呼ぶ人もいるほどです。
しかしこの正倉院、歴史の中で平穏無事に守られてきたわけではありません。
上記のように正倉院は、八世紀の奈良やアジアの宝物を集めた蔵として今日まで残ってきました。しかし全ての品々がきちんと保存されてきたわけではなく、それらの宝物は奈良時代以降、何度も略奪にあっているのです。
■略奪・紛失・借りパクの憂き目に遭ってきた正倉院
大まかに言えば、天皇の力が強い時代には正倉院の宝物は守られていましたが、その権威が揺らいでくると、たちまち時の権力者や盗人に狙われるようになったのです。
正倉院を狙った権力者の典型が、室町幕府の将軍・足利義政と織田信長です。

足利義政(Wikipediaより)
彼らは、正倉院に保管された沈香の一種である黄熟香を一片ずつ切り取っています。それが、名香として誉れ高い蘭奢待として現在でも世に知られています。
また、盗人がはいったこともあります。
戦乱に巻き込まれて消失した宝物もあります。 正倉院には矢も献納されていましたが、藤原仲麻呂が反乱を起こしたとき、その追討のために正倉院の矢が使われたのですが、その後返却されることはありませんでした。
また、正倉院には60種類の薬物が献納されていますが、それらは必要に応じて施薬院へ渡され、貴重な薬物として使われました。そのため現在は、正倉院の薬物は20数種しか残っていません。
その他、借用されたまま戻ってこなかった宝物もありますし、売却されたものもあります。
このように見ていくと、「正倉院は宝物が大切に保管された宝物庫である」という見方は真実の半分しか言い当てていない感じがしますね。実際には、正倉院の保存物はとても流動的だったのです。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia
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