■最初は「近藤勇」ではなかった

近藤勇(こんどう・いさみ)といえば、言わずと知れた新選組の局長です。日本史に詳しくない人でも、彼の名前はエンタメの世界を通して知っている人も多いでしょう。


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近藤勇(Wikipediaより)

しかし実は、この近藤勇という名前は後から変名したもので、もともとの彼は別名でした。最初は「近藤」姓でもなく、「勇」とも名乗っていなかったのです。

彼は、剣の腕を上げるごとに名前を変えており、それで三回も名前を変えています。その経緯を追ってみましょう。

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■盗賊に対する冷静な対応

彼は、新選組に参加する前は、天然理心流宗家の四代目として剣術の師範をしていました。

武蔵国多摩郡の宮川家に生まれた彼は、最初は宮川勝五郎(後に勝太)という名前でした。子どものころは、手をつけられないほどの餓鬼大将だったそうです。

宮川家は豊かな農家で、自宅に剣術の道場まで持っていました。父の宮川久次郎は、月に三度、天然理心流宗家の三代・近藤周助を招いては稽古を積んでいたといいます。

それで子の勝太も稽古をつけてもらっていており、早くから腕をあげていたようです。

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板橋区にある近藤勇像

その宮川勝太がただ者ではないと世間に思わせたのは、父の留守中の宮川家に盗賊が侵入したときのことです。

次兄の粂次郎が刀をふるって盗賊を追い払おうとすると、勝太はそれを制止しました。
そしてこうささやいたのです。

「賊は忍び込んだばかりで、気が立っているから、倒すのに骨折りです。でも、立ち去るときには早く逃げようとして、心が留守になっています。その虚をつくことが、剣の秘訣です」と。

兄はこれに納得して自重し、盗賊が引き揚げようとするときに一気に斬りかかりました。そうして数人を倒したのち、さらに追撃を試みます。

が、ここでまた弟の勝太が制止しました。「窮鼠、猫を噛むのことわざがあります。無駄な後追いは危険です」と言い、これに兄もまた納得しました。非常事態にもかかわらず、ちょっと信じられないほどの冷静な判断力です。

■後継者として養子に

この一件は、宮川勝太がただの餓鬼大将ではないことを周辺に示す結果になりました。剣術の師範である近藤周助も、勝太こそ自分の後継者だと考えたようです。


もともと彼は子に恵まれていなかったこともあって、勝太を養子にしました。近藤周助の本名が「島崎」だったことから、島崎勝太が正式の名となります。

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近藤勇の墓

このあと、島崎周助は元服し、「島崎勇昌宜」と改名します。島崎勇は天然理心流宗家・近藤家の跡を継ぐ者でもあるため、「近藤勇」の名を併用することにもなりました。

そして天然理心流宗家四代目を襲名したのち、「近藤勇」と正式に名乗るようになったのです。

参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia

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