奈良県明日香村にある「石舞台古墳」のことは、歴史好きの人なら知らない人はいないと思います。
しかし、有名なこの古墳は、よく考えてみると、私たちが古墳と聞いてすぐイメージするものとは大きく異なっています。
石舞台古墳の大きな特徴は、封土(ふうど)がなく、石室が露出している点です。普通の古墳は石室の上に土が盛られているのですが、石舞台古墳はいわばむき出しの状態で、そこに石がかぶせられているだけの状態なのです。
それこそが「石舞台古墳」という呼称の由来でもあるわけですが、この剥き出しの古墳はかつては東西481メートル、南北83メートルの外堤をもつ上円下方墳か、あるいは方形墳だったと考えられています。
つまり、石舞台古墳はいったんは土がかぶせられていたのです。では、なぜ現在はむき出しの状態になっているのでしょうか。
実は、この古墳の封土が取り除かれたのは、埋葬者とみられる蘇我馬子に対する懲罰の意味があったからではないかと考えられているのです。
■権勢をふるった蘇我氏
石舞台古墳は、純粋に古墳として造られた当時の姿をとどめているわけではないということです。この古墳は、古代日本で権勢を振るった蘇我氏への仕返しとして、蘇我氏の滅亡後に破壊されたのではないかと考えられています。
蘇我氏は、蘇我稲目の代に、物部氏と並ぶ二大勢力に発展した豪族です。小学校の日本史でも登場するほどの超有名な一族ですね。
蘇我氏が権勢をふるうようになったのは、用明天皇の没後に勃発した、後継者をめぐる争いでした。
蘇我稲目の子である馬子は、ライバルの豪族・物部氏が擁立しようとした穴穂部皇子を暗殺します。

蘇我馬子(Wikipediaより)
それ以降は、崇峻天皇を暗殺したり(蘇我馬子は日本史上唯一、天皇を暗殺した人物でもあります)、新羅に貢ぎ物を催促するために遠征軍を派遣しようとしたり、天皇陵である六御県の一つ葛城県の割譲を推古天皇に迫ったりするなど、権勢をふるい続けました。
重要なポイントは、こうした権力者は、必ず妬みや恨みの感情を向けられるということです。
■珍しい「墓暴き」の事例
馬子が死んだのは、626年5月20日。その遺体は、子の蝦夷によって桃原の墓(石舞台古墳)に葬られました。その墓は、蘇我氏全氏族を動員して数年がかりで造られたとされています。
その後の蘇我氏は、馬子以後も蝦夷・入鹿の時代に繁栄します。その一方で、三代に渡って権力をほしいままにした蘇我氏は、多くの人たちから怨まれる存在となりました。
そこで、蘇我氏滅亡後、石舞台古墳は墓の封土を取り除かれるという辱めを受けたのではないかと考えられています。
ちなみに、日本ではあまり多く記録が残っていませんが、死後に故人の墓を破壊する、いわゆる「墓暴き」は古代中国では「戮」という刑罰として紀元前から行われており、これは近代まで続いていました。また、フランス革命でも王族の墓が暴かれるなどしています。
石舞台古墳の破壊は、こうした古代中国の刑罰を知っていた当時の権力者が行ったのかどうかは不明です。
石舞台古墳
- 入場時間 9:00~17:00(受付16:45まで)
- 休業日:年中無休
- 入場料:一般 300(250)円、高校生~小学生100(50)円 ※()は団体料金(30名以上)
- アクセス:バス停「石舞台」下車して徒歩3分
- 駐車場:あり 有料
- 所在地:奈良県高市郡明日香村島庄133
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan