694年に持統天皇が、飛鳥京の西北部(現在の橿原市)に、唐の都長安をモデルに造営した都が藤原京です。しかしこの藤原京は、わずか16年で奈良の平城京へ遷されてしまいました。
江戸時代に描かれた持統天皇(Wikipediaより)
我が国初の本格的な都城だったわけですが、それがわずか16年間でお役御免となった理由についてはいくつかの説があります。まずは、そのいくつかをご紹介しましょう。
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一説には、天皇の宮殿が都の中央にあったことが遷都の理由だといわれています。
風水によれば、都は東、西、北が山に囲まれ、南が開けている場所におくとよいとされています。また、都の北辺に宮殿を建て、そこから南へ向かって開発を進めるのがよく、南部に川が流れているとより理想的といわれています。
実際、唐の都は北辺に宮殿が配置され、南へ向かって建物が広がっているという形になっていました。
ところが藤原京は、都の中央に宮殿があり、その四方が他の建物に囲まれていました。風水の観点からは理想の都とはいえないことが、当時の人々には不吉に感じられたのかも知れません。

藤原京の復元模型(Wikipediaより)
また藤原京は、海運の拠点だった難波津から遠いことや、たびたび川の氾濫が起こることもネックとなっていたと思われます。川が氾濫すると建物に被害が及ぶだけではなく、すぐに疫病が流行するからです。
平城京へ遷都された理由は、このようにいろいろ考えられます。が、この他にもトイレおよび衛生問題という、深刻な問題もあったと考えられています。
■埋めるしかなかった!?
世界的に見ても、現代日本は公衆衛生が極めて高度に発達した国です。
藤原京や平城京は、そんな現代の私たちから見れば信じられないほど不衛生だったと思われます。
両者の跡地からは、一応、トイレらしき遺構が発見されています。宅地に深い穴が掘られていて、そこで用を足していたものと思われるのです。
ただし当時は、後世のような汲み取りシステムは存在しませんでいた。よって、穴がいっぱいになった時点で新しく穴を掘らなければならなかったと考えられます。
都のそこら中に糞尿が埋められていたわけです。それを繰り返せば、衛生問題に発展するのは自明の理でしょう。
■「水に流す」のはいいけれど…
もっとも、水洗トイレの原型といえるような遺構も発見されています。藤原京と平城京の道路脇には側溝が設けられており、そこを水が流れていたようなのです。
この側溝を邸宅内に引き込み、さらに邸内にも溝をつくって道路側の側溝に合流させた遺構も発掘されています。
つまり外の溝から水を引き、その水で汚物を流し、外の溝に放出するという水洗システムだったと推定されます。
排泄物をただ捨てたり埋めたりするのではなく、「水に流す」ことを考えたのはさすがだと言えるでしょう。

藤原京跡の蓮の花。後ろには天香久山もみえる
ただ、このシステムはかえって都の衛生状態を悪化させていたようです。結局、道路脇の側溝を糞尿が流れ、ところどころに溜まっていたと思われるからです。
藤原京も平城京も、近くに大きな川がありませんでした。よって汚物が海まで流れるわけもなく、そうした糞尿が最終的にどうなったのかは不明です。
仮に、それを処理する役割の人がいたとしても、結局はどこかに棄てるか埋めるしかなかったはずです。これでは、都市衛生はひどい状態だったに違いありません。
しかも先述の通り、ときどき川の氾濫は起きていたわけですから、洪水になるたびに汚物が流出していたことでしょう。
藤原京はわずか16年しか都市として機能しませんでしたが、それは汚物問題を解決できなかったことも大きな理由のひとつと思われます。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia
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