■「富本銭」の発見

「日本最古の貨幣は和同開珎」と学校で教わった人もいると思いますが、現在はそうは教えていません。1999年に、和同開珎よりも古いと見られる銅銭が発見されたからです。


この銅銭のことを「富本銭」と呼びます。

和同開珎の鋳造が始まったのは708年(和銅元)ですが、富本銭が発見されたのは600年代の地層でした。そこで、この発見は歴史の教科書を塗り替える大発見となりました。

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奈良県桜井市の大福遺跡から出土した富本銭(Wikipediaより)

とはいえ、それまで歴史学者が富本銭の存在をまったく知らなかったわけではありません。7世紀に銅銭が存在していたことは『日本書紀』にも記されていますし、実際、1985年には平城京跡で富本銭が発見されていました。

にもかかわらず、和同開珎が最古の貨幣とされてきたのは、富本銭が「最古」のものだという決定的な物証がなかったからです。

それが、新たに600年代の地層から発見されたことで、和同開珎よりも古いことが証明されたわけです。

■富本銭と和同開珎の使い道

ところで、7~8世紀といえば、依然として物々交換の時代でした。つまり、貨幣など使わなくても暮らしていけた時代だったのです。

そんな時代に、富本銭や和同開珎などの貨幣は何に使われていたのでしょうか。

和同開珎の用途は明らかになっており、これは平城京を造営するための給料として造幣され、労働者たちに支払われました。

都の造営には多くの人手が必要で、和同開珎はその給金を支払うために造られたのです。


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山口県下関市で出土した和同開珎の鋳型(Wikipediaより)

一方、富本銭はどうかというと、和同開珎ほどはっきりとは分かっていません。おそらくこれも同様に、一時代前の藤原京の造営のための給金として造られたのではないかと考えられている程度です。

いわば、どちらも公共事業用の貨幣だったと考えられているのです。古代の貨幣は、国民を公共事業に駆り出すために鋳造されたのかも知れません。

■和同開珎の贋金を造ると…

ちなみに、和同開珎の発行以後、律令政府は庸や調の税を銭で納めさせることもありました。このため貨幣の流通が盛んになりましたが、これと歩調をあわせて贋金が造られ始めたようです。人間が考えることはいつの時代も同じですね。

当初、贋金を造った者には3年の懲役刑を課すと定められていました。しかしその程度の刑では効果が薄かったらしく、711年(和銅4)には、主犯は斬刑、共犯は没官(土地や家屋、その他財産の没収)、家族は流刑と、格段に厳しい刑罰に改められました。

すぐに罰則を強化しなければならないくらい、贋金造りが横行したということなのでしょう。

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奈良・平城宮跡の第一次大極殿

ただし、当時、贋金をどのように見分けていたかなど詳しいことは不明です。おそらく、貨幣を管理する大蔵省か調銭を収納する主計寮といった役所でチェックしていたのでしょう。


ちなみに、奈良時代の753年(天平勝宝5年)には、主犯の刑は流刑に軽減されました。贋金造りで磨いた技術を発揮させようということなのか、遠国の鋳銭所で働かせるようになっています。

s参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:Wikipedia

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