日本史上「世捨て人」として有名なのは、やはり西行と吉田兼好の二人でしょう。
西行像(MOA美術館蔵)Wikipediaより
一応簡単に説明しておくと、西行法師は俗名は佐藤義清。
彼は23歳の時に妻子を捨てて出家し「円位」と名のり、後に「西行」と称しました。『新古今集』に九四首の歌を残しています。
また吉田兼好は、随筆文学の傑作とされる、言わずと知れた『徒然草』を著した中世の歌人であり思想家でもある人物です。 その深遠な思想や人生観、そして美しい文章は今なお多くの人々を魅了しています。

吉田兼好(Wikipediaより)
■どうやって生計を立てていた?
この二人はともに日本文学史上に残る人物ですが、共通点はそれだけではありません。
先述の通り、西行は鳥羽上皇に仕える北面の武士でしたが23歳にして出家しています。実は一方の兼好も一度は後二条天皇に仕えていますが、30歳でやはり出家。どちらも同じような経歴を経て、世俗を捨てた隠者になった人なのです。
ところで、世捨て人とか隠者などと言われると、どのような人物像が浮かぶでしょうか。多くの人は山奥にこもって晴耕雨読、誰とも関わりを持たずに生きているようなイメージが浮かぶことでしょう。

長野県有明山。
しかし、世を捨てたといっても、人は生きている以上、食べていかなければなりません。一体、この二人はどうやって生計を立てていたのでしょうか。
二人とも優れた文筆家なので、現代なら原稿料や印税で食べていくこともできたかも知れません。しかし当時はもちろん出版社などない時代です。
よって偉大な文学者であっても、貧しく哀れな生活をしていたのでは……と思う人もいるかも知れませんが、実はそんなことはありません……。
■実は裕福だった
意外かも知れませんが、二人ともけっこうリッチに暮らしていたのです。
まず西行ですが、彼はもともと豪族の出身です。実家から援助を受けて、悠々と暮らしていたようです。
彼は各地を旅して回ったといわれますが、これも一本の杖を頼りに荒野をさまようといった孤独な世捨て人の旅のイメージからはほど遠く、お供を二、三人連れて、のんびりと旅行していたとされています。まるで水戸黄門ですね。

江戸時代に描かれた西行(Wikipediaより)
一方の吉田兼好はどうでしょうか。
彼はつれづれなるままに日暮らし硯に向かっていたようで、それだけを聞くとやはり山奥のあばら家あたりに引きこもって文章を書いていたようなイメージが湧きますね。
ところが、彼もちゃっかり商売をやっていたのです。それも不動産ビジネスです。質のいい田んぼを買って、それを転売するという仕事だったと言われています。
世捨て人というと「カスミを食って生活」とというイメージが湧きますが、少なくともこの二人はそうではありませんでした。
人間社会に疲れて「世捨て人」に憧れる人は少なくないと思いますが、日本史上最も有名な「世捨て人」の二人がこうなのですから、ガッカリしてしまう人もいるかも知れませんね。
本当に「世を捨てる」というのは実現しがたい理想像なのかも知れません。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:Wikipedia
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