■建武の新政から南北朝時代へ

鎌倉時代の末期、後醍醐天皇の命によって各地の武士が発起。当時、権勢を握っていた北条氏に対して反乱を起こし、鎌倉幕府は滅亡します。
そして有名な建武の新政が始まりました。

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後醍醐天皇(Wikipediaより)

その後、足利尊氏が天皇に対して反旗を翻し、いったんは敗れて九州に落ち延びますが、1336年(延元元)に京都を目指して東上を開始しました。

彼は京都防衛のために出陣してきた楠木正成を摂津の国の湊川の戦いで破り、京都を奪還。そして光明天皇を擁立し、自身は征夷大将軍となって室町幕府を開きます。

一方、天皇の座を追われた後醍醐天皇は、比叡山に立て籠もって半年間抵抗しますが、11月には尊氏と講和を結びます。

そして天皇のしるしである三種の神器を光明天皇に譲って、自身は花山院(今の京都御苑内にあった屋敷に軟禁されました。

ところが翌月、後醍醐は花山院を脱出し、伊勢にあった北畠親房と楠木一族の手引きで吉野へ逃れます。

さらに、光明天皇に渡した三種の神器は偽物であるとして、自らの皇位の正当性を主張したうえ、「延元」という元号を復活して全国の武士に向けて足利討伐を呼びかけました。

このようにして、京都の北朝と吉野の南朝という二つの朝廷が並び立つ南北朝時代が始まったわけです。

ではそもそも、なぜ後醍醐天皇はここで「吉野」を根拠地としたのでしょうか。これにきちんと答えられる人は実は多くはいないでしょう。

■吉野は防御・補給に適していた

後醍醐天皇が新たな根拠地として吉野を選んだのは、おもに三つの理由があったと考えられています。


一つは、吉野が山岳地帯であり、地形的に攻められにくいことです。

吉野の南方には紀伊山地があり、南側の防衛を考慮する必要がなかったことに加え、西方は楠木一族が本拠とする河内・和泉に近いという位置関係にありました。

また、東は伊賀を通じて北畠親房のいる伊勢へ通じており、防御を固めやすかったのです。

南北朝時代、そもそも後醍醐天皇はなぜ「吉野」の地を根拠地としたのか?その3つの理由


後醍醐天皇の勅願寺とされた如意輪寺

二つめは、山岳地帯でありながら河内・和泉や伊勢へ通じているため、吉野を根拠地とすることで補給ルートを確保できることが挙げられるでしょう。

特に伊勢大湊から東海・品川方面への海路が開けていましたし、紀ノ川を下って和歌山へ出ると、瀬戸内海交通の要衝である堺にもつながっていました。

三つめは、後醍醐天皇自身が真言密教宗派に太い人脈を持っており、吉野で修行する修験者を味方につけられたことが挙げられます。

当時の熊野の修験勢力は強力な水軍をもっていたので、この地で海上ルートを確保することで、後醍醐天皇は大きな戦力を得ることにつながったのです。

このように見ていくと、後醍醐天皇は単に吉野へ「逃亡」したわけではなく、あくまでも今後の戦のことを考えながら移動したことが分かります。彼が吉野に逃れることには大きな意味があったのです。

参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:Wikipedia

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