古今東西、どんなに時代が変わっても消えることがないものといえば「色の道」。

昔から「英雄色を好む」ということわざがあるように、いわゆる権力・財力・知力・胆力・武力・才能などを持ち合わせている男性は、往々にして「女性が大好き」(男色を好んだ人も多いですが)だといわれています。


大好き過ぎて、側室や愛人を数十人もうけるなどは当たり前でした。

いずれも権力や地位があり多忙そうなのに、色遊びをする時間・体力・気力に満ち溢れていた……そんな、「性豪」と呼びたくなる、歴史上の偉人の中からベスト5をご紹介したいと思います。

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某少将の妾(月岡芳年)

■側室の数は40人!?政治に無関心だった足利義政

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伝足利義政像(伝土佐光信画、東京国立博物館蔵)wiki

足利義政は、室町幕府の第8代将軍として1449年~1473年(文安6~文明5年)までの24年間、将軍の座に就いていました。

しかし、将軍でありながら政治的な活躍や実績などはあまり芳しくなく、「やる気がない」「だめな将軍」などと呼ばれるほどその能力は評価されていないようです。

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義政は、室町時代において、戦い・政治・飢饉など、現実の問題にから顔を背け、見かねた後花園天皇が義政の行動を憂いて、漢詩をもって諌めたこともありました。

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伝後花園天皇像(大應寺蔵)wiki

その一方、芸術や芸能をこよなく愛し、文化の発展には大きく貢献しました。

1473年(文明5)に将軍職を引退した後、東山に山荘を建てて引っ越した義政は、芸能・芸術に携わる人たちを幅広く支援し「東山文化」を創出。銀閣寺(慈照寺)を創立したことでも有名です。

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観音殿(銀閣)wiki


そんな足利義政はかなり早熟で、自分の乳母だった10歳年上の今参局(いままいりのつぼね)を側室にしました。また、その側室と正妻・日野富子との間には激しい確執が繰り広げられたともいわれています。

気性の激しい正妻と側室に挟まれていたかのように見える義政ですが、ほかにも側室も多く一説によると、40人も抱えていた……などという話もあるようです。



■子供の数55人の「オットセイ将軍」徳川家斉

江戸幕府の第11代将軍・徳川家斉は、江戸幕府の歴代将軍の中でも最も在任期間が長い(1787~1837)ことで知られています。


白河藩出身の松平定信(まつだいら・さだのぶ)を老中首座として、財政を立て直し倹約を重んじる「寛政の改革」を敢行させましたが、自分の性生活に倹約はなく大奥での日々を謳歌。

生涯に側室を40人、子供を55人(男子28人・女子27人)ももうけたと伝わっています。

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徳川家斉像(徳川記念財団蔵)wiki

徳川家斉は、精力増強のためにオットセイの陰茎を粉末にした精力剤を飲んでいたことから「オットセイ将軍」「種馬公方」などと呼ばれていました。

17才から55才までの間、ほぼ毎年コンスタントに子どもが生まれていたほど、絶倫ぶりですが、精力剤の愛飲以外にも、早寝早起き・日々の散歩や運動・白牛酪(※)を食べるなど、健康にはかなり気をつかっていたそうです。

※白牛酪:牛乳と砂糖を煮詰めて塊状にしたチーズのような食べ物

また、大奥の一間を全面鏡張りにして夜の営みを楽しんでいた……という話もあります。

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アシカ(右)とオットセイ(和漢三才図会)wiki



■子沢山で知られる嵯峨天皇

794年に「平安京」を造都した桓武天皇の第二皇子である嵯峨天皇は、786年(延暦5年)に生まれました。

嵯峨天皇といえは、828年(弘仁9年)に死刑停止の宣旨(弘仁格)の公布、治安維持のための検非違使(けびいし)の設置、平安時代の優れた書家三筆(空海・嵯峨天皇・橘逸勢)に選ばれたりしたことで知られています。

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嵯峨天皇像(御物)wiki

その嵯峨天皇は、56歳で崩御するまでに迎えた「后」はなんと24人もいたとか。さらにその后との間には、50人もの皇子・皇女をもうけたという絶倫天皇としても有名です。

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当時、天候不順が続いたために凶作続きで国家財政もかなり逼迫していたために、50人すべてを内親王・親王にするには経済的に無理がありました。

そこで8人の子供に「源」の姓を与え「臣籍降下」(皇族としての地位を失うこと)させました。彼らは、天皇の皇位継承権は失ったものの朝廷で高官として務めるようになり、それが「嵯峨源氏」の始まりになったそうです。


嵯峨天皇自身はのちに、『男女やや多く、空しく府庫を費やす』とぼやき後悔した
という、思わず「おいおい」とツッコミたくなるような逸話が残っています。

ちなみに、「光源氏のモデル」だとされる人物は複数いるのですが、源融(みなもとのとおる)は、嵯峨天皇の第十二皇子です。

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源融(菊池容斎『前賢故実』)wiki



性豪伝説は【後編】に続きます。

【後編】の記事はこちらから↓

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