突然ですが、皆さんは岡定俊という戦国武将はご存知でしょうか。

蒲生氏郷と上杉景勝に重臣として仕え、左内の通称で知られていますが、知名度に関しては低いと言わざるを得ません。


そのような人物でありながら、左内はお金に関するエピソードが豊富なことで一部から知られています。

借金を帳消しにする漢気も!お金大好き戦国武将・岡左内の守銭奴...の画像はこちら >>


また、左内にはお金を使った可笑しな趣味もあったとか。

今回は岡左内の人となりとお金にまつわるエピソードをご紹介します。

※本記事では通称の左内で統一しております。

■武勇に優れた一面を持っていた

借金を帳消しにする漢気も!お金大好き戦国武将・岡左内の守銭奴なエピソードを紹介


上杉景勝/Wikipediaより

左内は若狭国太良庄城(現在の福井県小浜市)城主・岡盛俊の子として永禄10年(1567)に誕生しました。元亀4年(1573)には若狭国が丹羽長秀の領地になった際、蒲生氏郷に仕えます。

若くして武勇に優れ、天正12年(1584)に小牧・長久手の戦い中に起こった戸木城の戦いでは、18歳ながら畑重正を討ち取る活躍をしました。

しかし、蒲生家のお家騒動である蒲生騒動で会津92万石から宇都宮18万石に減封となると、蒲生家に替わって会津を領地にした上杉景勝に仕官します。

ここでも優れた武勇を発揮し、慶長5年(1600)に起こった松川の戦いで傷を負いながらも伊達政宗を打ち破る活躍をしました。

また、熱心なキリシタンとして知られ、この戦いの時に伴天連より贈られた南蛮胴を身に着けていたと言われています。

しかしながら、上杉家が米沢30万石に減封となると再度会津の領主となった蒲生秀行に仕えました。

その後、慶長14年には猪苗代城城代に任命され、元和8年(1622)に亡くなりました。


■お金は貯めても執着は持たず!?

借金を帳消しにする漢気も!お金大好き戦国武将・岡左内の守銭奴なエピソードを紹介


蒲生氏郷/Wikipediaより

ここからは左内に関するエピソードをご紹介します。

左内は貯蓄癖があると同時に、貯めたお金を部屋一面に広げ、その上に乗ってお金を見て楽しむという変わった趣味を持っていました。

このような趣味もあり、何かあった際にも自分のお金を第一に考えるだろうと笑い者にされていました。

そして、いつものように左内が楽しんでいる時に左内の所の武士が喧嘩している報告を受けます。それを聞いてすぐさま準備し、一泊二日かけて喧嘩を仲裁しました。

その際、部屋一面に広げてあったお金はそのままの状態で来ており、一同は驚いていました。

しかし、肝心の左内は全く気にしていない顔で「あのお金は戦いのために準備したもので、お金に目がくらんで貯めていたのではない」と言い放ちます。

この左内の発言を受け、笑い者にしていた者たちは深く感心しました。

そして、天正18年(1590)に起こった小田原の役の際に左内は貯めたお金を使って良質な馬と武具を身に着けて出陣。左内の立派な見た目に称賛した蒲生氏郷は、300石加増したと言います。

■借金を全て帳消しにする漢気を見せた!

借金を帳消しにする漢気も!お金大好き戦国武将・岡左内の守銭奴なエピソードを紹介


直江兼続/Wikipediaより

左内は貯めたお金を自分のためではなく、他者にも惜しみなく使うことができました。

それは、上杉景勝のもとで徳川家康による会津征伐(慶長5年(1600))が勃発した際、景勝に現在の10億円に相当する1万貫を献上したことが物語っています。


景勝だけではなく、上杉家の武将たちにもお金を貸す懐の広さも左内は持ち合わせていました。

その後、上杉家が減封した際に「たくわえ」があったので牢人となります。しかし、その「たくわえ」が左内への借金ではないかと戦々恐々している上杉家の武将たちを見た直江兼続は、左内へ借金について聞きました。

そのことを聞かれた左内は、驚くことに借用書を全て焚き火の中へ投げ入れてしまいます。そして、牢人となったことで上杉家を不安にさせてしまったことを恥じて蒲生家に仕官しました。

この行動を見た兼続は「本当に必要な人物は彼なのに、惜しいことをした」と後悔したと言います。

また、蒲生家に仕官した際にもお金を貸しており、晩年には全ての借用書を処分した上で亡くなったと言われています。

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

編集部おすすめ