親なし・金なし・風流なし……のないないづくしといわれた蔦重でしたが、今でいうメディア戦略の才能に長けたヒットメーカーとして知られていました。
先見の明を持つ野心家ながら、きっぷがいい男とも評価された蔦重の人物像とともに、彼が携わった「大ヒット作品」たちをご紹介します。
蔦屋 重三郎 山東京伝『箱入娘面屋人魚』より wiki
■遊廓が並ぶ「女の園」で生まれ育った重三郎
蔦屋重三郎は寛延3年(1750)、吉原遊廓(新吉原)で生まれました。
7歳にして両親が離婚、吉原で引手茶屋「蔦屋」を営む喜多川家の養子になりました。
引手茶屋とは、吉原遊廓で客を遊女屋に案内したり酒宴をさせたりする斡旋業のような場所だったそうです。

「引手茶屋」鈴木春信 wiki
その当時の吉原は、200軒以上もの妓楼(遊女を置いて客を遊ばせる家)・茶屋・土産物屋・料理屋・湯屋などが立ち並び、遊廓で遊ぶ以外にも楽しめる、江戸の巨大な観光名所となっていました。
遊女をはじめさまざまな商売を営む人々とともに生活し、観光客や遊廓客など多くの人を観察できる吉原という特殊な環境の中で育った蔦重。
さまざまな情報が集まる吉原で、蔦重はトレンドをいち早く掴む感性を磨き、幅広いネットワークを築いていったようです。
レンタル商売流行りの江戸で貸本屋を開業安永元年(1772)23歳頃の重三郎は貸本屋を兼ねた書店を開業します。
江戸時代は、火事が多く物を所有するのはリスクが高いために、鍋・釜・布巾・ふんどしまでいろいろなもののレンタル業が盛んでした。書籍も庶民にとっては高価なものだったので、貸本屋は大いに繁盛していたそうです。
野心家で才気あふれる蔦重にとって、貸本屋はいわばファーストステップ。
貸本屋としてさまざまな利用客と接し、吉原のトレンド情報を集めた蔦重が目を付けたのは遊廓のガイドブック作りでした。

「新吉原の桜」歌川広重(1835年3月頃)wiki
■吉原育ちの重三郎ならではの吉原ガイドブックが大ヒット
当時、江戸土産としても大人気だった『吉原細見(よしはらさいけん)』という遊廓ガイドブックがあったのですが、改訂がほとんどされずに情報が古く、人気も信頼も薄れつつありました。
さらに吉原細見を独占出版していた版元・鱗形屋が重板罪(著作権の侵害)で謹慎処分になり同書籍を刊行できなくなったため、蔦重は自ら版元となりアップデートした吉原細見を出版することとなったのです。

『吉原細見』元文5年 wiki
吉原で生まれ育ち、すみずみまで精通し人脈も築き上げてきた蔦重にとってはまさにぴったりの仕事。
さらに、蔦重版吉原細見のタイトルは『細見嗚呼御江戸(さいけんああおえど)』と名付け、その序文を人気作家・福内鬼外(ふくちきがい)に依頼したのです。
実は、福内鬼外は、江戸のレオナルド・ダ・ヴィンチと呼ばれた平賀源内のペンネームでした。
当時、平賀源内は生粋の男色家としても知られ、『江戸男色細見』という陰間(体を売る若い男性の役者)茶屋のガイドブックや男色小説を出していたことでも有名だったのです。
男色家に「遊廓ガイドブック」の序文を書かせる

「平賀鳩渓肖像」(平賀源内)木村黙老著 wiki
源内の序文は、女衒(ぜげん/遊女屋などに女性を売る仕事)が女性を買うときに、どんな部分に注視するかを挙げ「どんな女性でも、引け四つの時刻(※)にあまっている女性はいない。そんな器の広さがあるのが、このお江戸なのだ」という内容で締めくくっています。
※吉原の遊里で、遊女が張り見世から引き揚げる時刻
「あの男色家の平賀源内が、女の園の吉原本の序文を書いた!」ということで、江戸っ子たちの間で『細見嗚呼御江戸(さいけんああおえど)』は、大きな話題を呼びました。
面白みや新しさが薄れ、客離れしていた『吉原細見』でしたが、源内の序文はもちろん吉原で生まれ育った蔦重ならではの、微に入り細に入り描かれた充実した内容も大評判となったのです。
そうして、蔦屋重三郎は「版元」として確固たる地位を築いていきました。
後編の記事はこちらから↓
大河ドラマ『べらぼう』親なし・金なし・風流なしが江戸のメディア王に!蔦屋重三郎の生涯を完全予習【後編】

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