弥生時代の日本の稲作に関する考古学の新発見に注目すると、現代の農業技術のルーツが見えてきます。古代の日本人がどのようにして稲作を発展させてきたのか、その秘密に迫ります。
日本の稲作は縄文晩期にはじまりました。戦前までの考古学では、縄文晩期から弥生時代にかけての稲作は、種籾を直接水田にまく直播きが主な農法で、田植えは行われていなかったと考えられていました。
ただし、それを裏付ける考古学的発見はなく、これはあくまでも直播きの方が簡単にできることからの推定でした。
ところが、戦後まもなく行われた静岡県の登呂遺跡の発掘調査以降、各地で水田跡が発見され、弥生時代にも田植えが行われていたことが明らかになりました。
登呂遺跡の竪穴式住居
たとえば、弥生末期の百間川遺跡(岡山県)の水田跡には坪当たり400株前後の稲株の跡が残っていました。しかもそれが規則的に配列されていたことから、田植えが行われていたことがうかがえるのです。
現在では、水稲耕作の初期段階から、直播きと田植えの両方が行われていたことがわかっています。
■直播きよりも楽だった?
そもそも、直播きといっても、田を深く耕すことは必須です。しかし木製の農具で深く耕すのは重労働ですし、また直播きだと、雑草の駆除が大変な作業になります。
そんなことから、前年の刈り株を掘り起こしたところに水を満たし、別に育てた苗を植えかえる田植え方式のほうが、むしろ作業は楽だったという意見が有力なのです。
私たちのイメージとしては、米作りが始まった当初から苗づくりが行われていたはずがないと想像しがちです。実際、どんな植物でも苗を作るのは大変な作業だからです。

稲の苗
だから弥生時代は種を直接まく直播き方式が主だったろうと考えがちですが、実際にはそうではなかったのです。苗を植える「田植え」は、決して新しい技術ではありませんでした。
弥生時代の稲作は、日本の社会や文化に大きな影響を与えています。
稲作の普及によって、定住生活が進み、村落が形成されるようになりました。
村落では、共同作業や祭祀が行われ、人々の結びつきが強まっていきます。また、稲作によって生産された米は、交易の重要な品目となり、各地の村落や地域間の交流が活発になりました。
■稲作の重要な役割
稲作技術の向上は、農業の発展を促し、やがて日本全土に広がることになります。
特に水田稲作は、灌漑技術の発展とともに安定した食糧生産を可能にし、人口増加や都市の発展に寄与しました。
弥生時代から古墳時代へと続く日本の歴史において、稲作は重要な役割を果たしてきたのです。

田植え作業の風景
そして、こうした稲作の発展は、現代の農業技術の礎を築きました。もちろん、種を直接播く直播きの技術も、また苗を植え付ける田植えの技術も、どんどん進化して現在に至っています。
古代の日本人が培った知恵と工夫は、現在の農業にもつながっています。
画像:photoAC
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