「三方ヶ原の戦い」は、1573年1月25日、静岡県浜松市の三方ヶ原台地で繰り広げられた武田信玄と徳川家康の戦闘です。多くの戦国ファンにとって有名な戦いですが、同時に謎も多い戦場です。


今回は、この戦いがどのようにして起こったのか、家康が、どうして無謀ともいえる挑戦をしたのかを、詳しく見ていきたいと思います。

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歌川芳虎 『元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖』

そもそも、三方ヶ原の戦いが発生した背景には、武田信玄が信長包囲網に参加し、徳川家康の領土に進軍してきたことがあります。信玄は元々、川中島の戦いで上杉謙信との激闘を繰り広げていましたが、その後、駿河国(現在の静岡県中部)を侵略し、ついには徳川家康の治める三河国(愛知県)や遠江国(静岡県)の侵攻を目指しました。

家康は、幼少期から今川義元の元で過ごし、義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れると、今川から独立し、織田信長と同盟を結びます。ところが、信玄の進軍により、家康は再び戦の渦中に巻き込まれました。

信玄が三方ヶ原に進軍する過程は、非常に慎重に計画されていました。まず、信玄は二俣城を攻略し、天竜川を渡って浜松方面へと向かいました。その際、信玄軍は「秋葉街道」を通り、磐田市神増の渡河点を経由して三方原に至ります。ここでは、従来の「二俣街道」や後の「信玄街道」を通り、整然と軍を進めていきました。

信玄は、三方ヶ原追分で陣を整え、家康の動向を待ちます。従来、最初の合戦は、小豆餅付近で繰り広げられたと考えられていましたが、近年の研究では、実際には祝田坂上(根洗松付近)で戦いが始まったという説も浮上しています。

家康がこの時期に出陣した理由にはいくつかの説があります。
最も有名なのは、信玄が浜松城を無視して北上したことで、家康がその背後を狙われる恐れから出陣したというものです。また、家康が「祝田坂」で武田軍に立ち向かうことで、自らの軍の信頼を確保し、領民や家臣たちに強い姿勢を示す狙いもあったと言われています。

また、別の説によれば、家康が武田軍に無視されたことへの屈辱や、戦局の進展が自分にとって有利に働くと思い込んだ結果として、出陣したという解釈もあります。このように、家康の出陣には多くの要因が絡み合っており、後の「敗戦の教訓」が深く影響を与えたとも考えられています。これらに関しても、まだまだ検証の余地を残すところです。

三方ヶ原の戦いは、武田信玄が徳川軍を圧倒する形で進行しました。武田軍は兵力で圧倒していた上、信玄の戦術は巧妙でした。

徳川軍は、信玄軍に完全に包囲され、わずか2時間ほどの戦闘で壊滅的な敗北を喫しました。

戦闘の結果、武田軍の死傷者は200人程度で、徳川軍は2,000人もの死傷者を出したと言われています。ただこれも、実際には武田軍490人、徳川軍1080人程度の死傷者だったとする説もあり、はっきりしたことは分かっていません。

いずれにせよ、家康は命からがら浜松城へ撤退し、その後も武田軍の追撃を逃れました。

三方ヶ原の敗北後、家康は一度は壊滅的な状況に追い込まれました。
一方で、この敗北を糧にし、後の長篠の戦いで武田軍を破り、最終的には天下統一に向けた道を歩みます。

また、家康は三方ヶ原での自らの姿を戒めとして、生涯その肖像画を醜く描かせ、常にその敗北を忘れないようにしたとも言われています。

家康の無謀な挑戦と信玄の巧妙な戦略!戦国ファンには有名で同時に謎も多い「三方ヶ原の戦い」とは?


『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(徳川美術館所蔵)三方ヶ原の敗北後、家康が描かせた肖像

三方ヶ原の戦いは、家康にとって大きな人生の転機となりました。信玄の巧妙な戦略と家康の若さゆえの挑戦が激しい戦闘を生み出し、その結果として家康は一度は敗北しますが、この経験が後の天下人への布石となっていくのです。

まだ全て解明されているわけではないこの戦い。今後明らかになるかもしれない真相解明が、とても楽しみです。

参考資料

  • 『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(徳川美術館所蔵参考資料
  • 小楠和正『検証・三方ヶ原合戦』(2000年 静岡新聞社)
  • 小和田哲男『三方ヶ原の戦い』〈学研M文庫〉(2000年)
  • 小和田哲男『戦国の群像』(2009年 学習研究社)
  • 丸島和洋『郡内小山田氏 武田二十四将の系譜』〈中世武士選書19〉(2013年 戎光祥出版)
  • 平山優『新説 家康と三方原合戦-生涯唯一の大敗を読み解く-』〈NHK出版新書688〉(2020年 NHK出版)
  • 平山優『徳川家康と武田信玄』〈角川選書664〉(2022年 KADOKAWA)

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