6代将軍・家宣の時代の大奥は、大奥史上最大級にドロドロしていました。そのドロドロの元凶は、家宣の正室・天英院VS家宣の側室・月光院の対立にありました。
今回は大奥史上最大とも言える彼女たちの派閥抗争をご紹介します。





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ドロドロ大奥の始まり





延宝7年(1679)、京都の公家・近衛家の娘だった天英院(当時は近衛煕子)は20歳の時にのちの6代将軍・徳川家宣(当時は甲府藩主・徳川綱豊)に嫁ぎます。





派閥抗争 正室VS側室!6代将軍・徳川家宣の時代の大奥が史上最強にドロドロすぎた【前編】
徳川家宣 (Wikipediaより)



2人は仲睦まじく、天英院が22歳の時に1女を、更には40歳の時に待望の1男をもうけますが2人とも早世。





それ以降も天英院と家宣の仲は生涯に渡って非常に良好だったのですが子供はできず、43歳で5代将軍・綱吉の養子となった家宣は側室を置くことになりました。これがドロドロの始まりだったのです。





派閥抗争 正室VS側室!6代将軍・徳川家宣の時代の大奥が史上最強にドロドロすぎた【前編】




月光院に男子誕生





家宣の側室は生涯で3人。正室の天英院はその中のお須免の方(おすめのかた)という側室のバックアップに回り、大五郎という男の子を産ませます。しかしその大五郎も早世。





次に家宣の側室となった女性こそ、天英院と長期に渡ってバトルを繰り広げる月光院(当時はお喜世の方)でした。





月光院は大五郎の死の後、待望の男の子を出産。鍋松と名付けられたその男の子こそ、のちの7代将軍・徳川家継でした。











慌てる天英院





慌てたのは天英院です。
家宣が天英院に寄せる信頼は厚く、将軍に就任したのちもたびたび江戸城内の吹上と呼ばれる庭園を2人で散歩したり、家宣が政治の事で悩んだ時には手紙や文書を天英院に見せて相談したりしていたにも関わらず、彼女には跡継ぎが居なかったために大奥内での力を月光院に奪われんとしていたのです。





天英院は鍋松誕生の2年後には再度お須免の方に虎吉という男の子を生ませていますが、その虎吉もすぐに亡くなります。





家宣死去で最年少将軍誕生!





そして事件が起こります。その翌年正徳2年(1712)には他ならぬ家宣自身がインフルエンザでこの世を去ってしまうのです。つまり、家宣の子供は鍋松ただ1人を除いて全員が早世してしまったという事になります。





この時、鍋松は数えでわずか4歳。翌年の正徳3(1713)には5歳でやむを得ず元服し、名を家継と改めて7代将軍の座に就きます。後にも先にも史上最年少の将軍が誕生した瞬間でした・・・!





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参考文献:堀口茉純「TOKUGAWA15」草思社



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