激しく勇猛果敢な活躍ぶりや悲劇的でドラマティックなストーリーが注目される戦国武将たち。
戦国武将たちも、正月くらいは家族と集まってご馳走を食べたり・のんびりお酒を飲んだり・遊んだりなどのひとときを過ごしたのでしょうか。
今回は、織田信長のお正月エピソードや、戦国武将のお正月の過ごし方などについてご紹介します。
鏡餅 wiki
■織田信長のお正月

紙本著色 織田信長像 wiki
『信長公記』(しんちょうこうき/戦国~安土桃山にかけての織田信長の一代記)に記された天正6年(1578)頃の記述に、信長の正月の姿があるそうです。

信長公記:陽明文庫所蔵wiki
それによると、明智光秀・羽柴秀吉・滝川一益・細川藤孝・荒木村重など12人ほどの近臣たちを招き、装飾を施した座敷で茶会を催し、お雑煮や唐物のお菓子なども供したそうです。
茶会は、中国の画僧「玉澗」(ぎょくかん)の絵画・三日月の葉茶壷・「帰花の水指」(かえりはなのみずさし)ほか、秘蔵の作品を惜しげもなく並べた豪華なものだったと伝わっています。
当時は、年頭の行事には酒はふるまわれていたそう。
信長があえて正月の行事として「茶会」を催したのは、日本でも最高峰の茶人を誇る織田信長が、茶の湯を通し全国を支配下に置くための布石だったともいわれています。

「茶会」安達吟光
ちなみに信長は、現代では「スイーツ大名」などと呼ばれるほど甘いお菓子が大好きだったとか。
徳川家康を安土城に招待してもてなした際には、「ふりもみこがし」という炒った米や麦を臼で挽いて粉にし、お砂糖を混ぜたお菓子を自作して振る舞ったそうです。

麦こがし(ふるもみこがし)photo-ac
■秀吉の機転で救われた新年の宴席

豊臣秀吉像(狩野光信画)wiki
あるとき、新年の挨拶の宴席で、信長の前の運ばれてきたお膳に箸が一本しかなかったときがありました。
それに気が付いた信長は大激怒し、おめでたい席は凍りついたそう。
そこで、末席から声をあげたのが豊臣秀吉でした。
「これはめでたい。片端で膳を平らげる…すなわち『かたっぱし』から諸国を平らげられるということを表しているのでしょう」と、説明してみせたのです。
この機転の効いた秀吉のひとことで、信長は機嫌を直しなごやかに新年を祝う席になったという逸話もあります。
その場に集まっていた人々が、心の中でほっと胸を撫で下ろしている様子が目に浮かぶようなエピソードですね。
【後編】の記事はこちら↓
なぜ「白い餅を焼く」と縁起が悪いのか?戦国武将たちはどんなお正月を過ごしてた?【後編】


正月の七草粥と祝箸(撮影:高野晃彰)
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan