■海上の戦闘集団

戦国時代の合戦は、陸だけでなく海の上でも繰り広げられました。

海上で戦うのは海上戦闘専門の集団・水軍であり、瀬戸内の村上水軍や、織田軍の下で戦った九鬼水軍などがよく知られています。


戦国時代に瀬戸内海で大活躍した日本の海賊王「村上水軍」について紹介
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戦国時代の海戦で活躍!海上専門の戦闘集団「水軍」はどんな船でどのような戦いを繰り広げたのか?


因島を拠点にしていた村上水軍の資料を展示している因島水軍城隅櫓

このような水軍は、ふだんは海上輸送や海上封鎖を担当していましたが、いったん敵の水軍が現れれば、海上での合戦へと突入することになりました。

ちなみに「水軍」の呼称はあくまでも江戸時代以降に用いられるようになった表記で、それ以前の古文書では海賊と呼ばれていました。

これはなぜかというと、陸で武力を持った武士たちは武家政権の成立に至ったのに対し、海の武士団である海賊衆は権力を持たないままだったからです。

つまり政権・権力側の公的な「軍人」ではなかったということですね。

見方によっては、同じ武人なのに仲間外れにされていたかのように感じられるかも知れません。しかしもともと、彼ら海賊は権力に組みこまれることを好まない独自性の強い立場だったようです。

海賊という名称には海の盗賊としてのネガティブなイメージが強いですが、こうしたことから、長い間この名称が使われていたのでしょう。

さて、そんな当時の海上での戦いは、艦隊同士の決戦でした。主力となるのは大型の安宅船(あたけぶね)です。

■安宅船・関船・小早船

ここで、安宅船をはじめとする当時の艦船について簡単に説明しておきましょう。

安宅船は、室町時代の後期から江戸時代初期にかけて用いられた軍船の一種です。

重厚な武装を施した巨大な船で、戦闘時には数十人の漕ぎ手によって推進するという構造でした。


戦国時代の海戦で活躍!海上専門の戦闘集団「水軍」はどんな船でどのような戦いを繰り広げたのか?


安宅船(Wikipediaより)

よって小回りがきき、またその巨体には数十人から百数十人の戦闘員が乗り組むことができたといいます。

安宅船は基本的に水軍の旗艦として運用され、戦力としての主力には中型で快速を誇った関船が使われていました。

室町時代後期以降の日本の水軍の艦船には、この他にもさらに快速で海上を駆けめぐる小早船があったようです。

これらの船のサイズについては、近代の艦種でいえば安宅船が戦艦に相当し、関船が巡洋艦、そして小早船は駆逐艦に喩えられるかも知れません(あくまでも船体の大きさの話で、役割は似て非なるものです)。

■水軍の戦い方

さて、安宅船は1000石から2000石積みで、前項で示した絵からも分かる通り、司令塔となる天守閣のような楼閣が建てられていました。

この安宅船を中心に、周囲を関船や小早船といった小型船で固めます。いわば護衛艦にあたります。

海戦では、敵方に火矢を浴びせたり、焙烙と呼ばれた炸裂弾を投げつけて、敵船を炎上させるなどしました。

あるいは敵船に乗り移り、白兵戦で敵兵を倒したり、あるいは船に火を放つこともあったようです。

戦国時代の海戦で活躍!海上専門の戦闘集団「水軍」はどんな船でどのような戦いを繰り広げたのか?


九鬼水軍の陣容(Wikipediaより)

こうした戦国時代の海戦のハイライトは、石山本願寺を救援に向かう毛利方の村上水軍と、これを阻止ようとする織田方の九鬼水軍の激突でしょう。

1576年(天正4)の木津川沖海戦では火力にまさる村上水軍が勝ったものの、その後、織田方水軍は鉄で防備を固めた超大型安宅船を建造したとされ、1578年には村上水軍を打ち破っています。

参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia

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