その動物はなんと蛸(たこ)でありました。
果たして一氏はどのようにして窮地を救われたのでしょうか。今回は一氏の生い立ちと蛸が一氏を救った出来事を詳しく紹介します。
中村一氏/Wikipediaより
■出自が不明な人物

豊臣秀吉/Wikipediaより
中村一氏は生まれた年が不明であり、出自も桓武平氏や近江源氏佐々木氏の山崎氏の支流・山崎氏、藤原氏、甲賀五十三家の1つである瀧氏と諸説あるため、はっきりとしていません。
豊臣秀吉に仕え、天正元(1573)年には近江長浜200石を拝領されました。
一氏は元亀元年(1570)から天正8年(1580)まで続いた石山合戦の参戦や天正10年(1582)に起きた山崎の戦いで鉄砲隊を指揮する活躍で、着実に武功を重ねていきました。
そして、天正11年(1583)に起こった賤ヶ岳の戦いでの功績により、岸和田城の城主に任命されます。同時に和泉国衆を配下にし、来るべく紀州攻めの備えを任命されました。
■三中老に任命される

三中老の生駒親正(左)と堀尾吉晴(右)/Wikipediaより
天正13年(1585)の秀吉による紀州攻めを経て、一氏は近江国水口岡山城主への任命と6万石を拝領されました。
続く小田原攻めでは、豊臣秀次率いる部隊の先鋒隊として一柳直末(ひとつやなぎ-なおすえ)と共に松田康長や北条氏勝、間宮康俊が守る山中城へ侵攻。途中、直末が康俊の放っ火縄銃によって戦死するも三の丸まで陥落させました。
この後も力攻めを続けた結果、城主の松田康長や間宮康俊を討ち死にさせ、山中城を落城させました。
戦後、この功績により駿府14万石を拝領されます。
三中老は一氏の他に生駒親正と堀尾吉晴が任命されています。
その後、慶長5年(1600)7月に関ヶ原の戦いが始まる前に病死。家督は長男の中村一忠が継承するも慶長14年(1609)に跡継ぎ不在のまま急死したことで、中村家は断絶してしまいました。
■一氏、蛸に救われる

岸和田合戦の様子(天性寺所蔵)/岸和田城のHPより
一氏が蛸に救われるのは紀州攻めの前年天正12年(1584)のこと。
この年に起こった小牧・長久手の戦いで秀吉が大坂城を留守にすると、これを待っていたかのように秀吉に敵対していた雑賀衆や根来衆の連合軍3万が岸和田城に侵攻してきました。
一氏は8000人の兵で迎え撃ちますが、多勢に無勢。徐々に劣勢になっていきます。
もはやこれまでかと覚悟を決めたその時、どこからともなく巨大な法師があらわれたかと思うと、手に持った錫杖を武器に敵兵をなぎ倒していきました。
さらには、法師が敵兵に囲まれた際に数え切れないほどの蛸たちを呼び寄せ、墨を吹きかけて敵兵たちを撤退させました。
一氏は法師にお礼を言おうと探しますが、見つからずに夜を迎えます。そして、夢にその法師があらわれ、自身が岸和田の地を守る地蔵であることを告げました。
その後、錫杖を持ったお地蔵さまが城の堀から見つかり、蛸地蔵と名付け丁重に祀りました。
そのお地蔵さまは現在、大阪府岸和田市にある天性寺に安置されています。
また、この戦いは岸和田合戦と呼ばれており、実際の一氏は寡兵でありながらも約800人を討ち取る活躍を見せ、見事に岸和田城を守り抜きました。
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