※実際に当時刊行された『一目千本』はこちらから閲覧できます。
花魁を生け花に見立て…大河「べらぼう」で紹介された北尾重政『一目千本』全ページを一挙紹介!
吉原遊郭のガイドブック改訂版『吉原細見(よしはらさいけん)』の前書きを、筋金入りの男色家・平賀源内に書かせることに成功した蔦重。
本の評判は上々!……なれど、幕府非公認の岡場所などに客足をとられ閑古鳥が鳴く吉原を再興するため、新たな本作りに奔走します。
江戸時代の出版形態である「入銀本(にゅうぎんぼん)」という形態で蔦重が作った『一目千本』という本は、江戸時代らしく古めかし響きですが、実は現代のクラウドファンディングやフリーペーパーシステムのスタイルを取り入れた斬新なものでした。

「吉原 仲之町」photo-ac
■吉原に活気を取り戻す蔦重のアイデア
大河ドラマ「べらぼう」の舞台になっている「吉原遊廓」は、もともとは日本橋人形町周辺に位置していました。(元吉原)
ところが、江戸市街が拡大しつづけて大名の江戸屋敷が吉原遊郭に隣接するようになったために、幕府は移転を命じていたのです。
そして、明暦3年(1657)。江戸三大大火に挙げられ10万人もの死者がでた「明暦の大火」の影響を受け、元吉原は現在の台東区千束に移転し「新吉原」として再建されました。
新吉原は元吉原の約1.5倍、およそ東京ドーム2個分ほどの規模となったのです。

江戸末期の新吉原の見取り図 wiki
『吉原再見』リニューアル版は売れても客足は増えず蔦屋重三郎が自身初の出版本となる『一目千本』の刊行をしたのは安永4年(1775)ごろ。その頃、新吉原には、推定で2,201人の遊女が存在していました。
吉原に活気を取り戻すために、吉原遊郭のガイドブックである『吉原再見』リニューアル版にかかわった蔦重。
男色家で知られる平賀源内が序文を書いたことで有名になった改訂版『吉原細見』ですが、蔦重はあくまでの編集者のひとりでした。
手に取った人が興味を持ってくれるよう情報を刷新したものの、あくまでも版元は鱗形屋孫兵衛(うろこがたやまごべえ/片岡愛之助※)で、蔦重は下請けと販売を請け負っていただけに過ぎなかったのです。
※江戸を代表する日本橋や深川の地本問屋の主

江戸時代の地本問屋 wiki
さらに、『吉原再見』は評判になったものの、実際に吉原遊廓に足を運ぶ客は増えないままでした。
そこで、蔦重は吉原に客を呼び込むために、遊廓を代表する遊女たちを紹介するガイドブック『一目千本』を企画し出版することにしたのです。

鳥居清長 「雛形若菜の初模様・あふぎや内たき川」public domain
■花魁ひとりひとりの個性を「花」に見立てた本
『一目千本』は、吉原遊廓の遊女のガイドブックでした。
けれどもただ楼閣の場所や遊女の名前を紹介したのではありません。
花魁ひとりひとりの個性や性格などを「花」に見立て、花の画で紹介する画集のようなものだったのです。
なぜ、「花」に見立てたか、それは当時の生花からヒントを得たものでした。
生花は、室町時代に成立した「立花(りっか)」という様式美を重んじたおおがかりなスタイルから、江戸時代になると「抛入(なげいれ)」というスタイルに変化。
形式にとらわれず、花の姿をそのままいかす生け方になったのです。

生花 unsplash
この抛入花スタイルの生花は、江戸庶民の間でもかなり流行っていました。
花魁ひとりひとりを花に見立てて紹介するという手法は、伝わりやすかったのでしょう。
蔦重が『一目千本』を出版する4~5年前に、洒落本作家の蓬莱山人が、各界の著名人を花になぞらえた『抛入狂花園』という本を出し話題になったという下地もありました。
■クラウドファンディング形式にして人気浮世絵師に依頼

蔦屋重三郎が手がけた『青楼美人合姿鏡 北尾重政』public domain
さらに、蔦重は『一目千本』を、入銀本(にゅうぎんほん)という出版形態で始めたのです。
入銀本とは、現代でいうと、クラウドファンディングや予約販売のようなもので、本を印刷する前にさまざまな人からお金を集めて本の制作費用を確保したうえで作るというシステム。
一般販売はせずに、妓楼や引手茶屋など(ドラマでは床屋などにも)にフリーペーパーのように「見本本」として置いてもらい本の知名度を上げ、受注生産形式にして在庫をかかえるリスクを回避する方法をとったのです。
さらに、蔦重は「花の画」を描く絵師として、のちの浮世絵界に大きな影響を与えることになった江戸時代中期の浮世絵師・北尾重政(きたおしげまさ/橋本淳)を起用しました。
【後編】の記事はこちらから↓
大河「べらぼう」に登場!遊女を”花”に見立てた蔦屋重三郎 初の出版本『一目千本』を解説【後編】

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