今回はそんな遊女の1人である若紫(わかむらさき)を紹介。果たして彼女はどんな女性で、どのような生涯をたどったのでしょうか。
■その源氏名に恥じぬ無双の花魁
イメージ(写真は大正3・1914年のもの)
若紫は明治15年(1882年)に武家(旧士族)の娘として生まれた(諸説あり)と伝わります。
本名は勝田信子(かつだ のぶこ)。明治31年(1898年)に17歳で遊女となり、角海老屋(かどえびや。角海老楼)で働きました。
なぜ彼女が遊廓に売られてしまったのか、詳しいことはわかりません。恐らくは家庭の生活苦ゆえでしょう。
若紫とは遊女としての源氏名で、紫式部『源氏物語』のヒロインである紫の上(むらさきのうえ)が幼いころに呼ばれた名前に由来します。
紫の上と言えば主人公である光源氏(ひかるげんじ)の妻で、容姿・性格・才能すべてにおいて完全無欠な存在でした。
勝田信子はその源氏名に恥じない遊女として評判をとり、たちまち角海老屋でも随一の花魁に上り詰めたのです。

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そんな彼女は吉原遊廓でも憧れの的であり、ついに身請け話がもたらされました。
時に明治36年(1903年)、若紫は22歳の花盛りです。
通常は10年を原則とする遊女の年季奉公より大幅に短く苦界を脱出できる。そんな喜びの中で、年季明けを指折り数えて待ち望んでいたことでしょう。
しかし同年8月24日、事件は起こりました。
若紫は暴漢によって刺殺されてしまったのです。
犯行の動機は諸説あるようで、若紫の結婚を怨んで無理心中を図ったとか、まったく無関係の通り魔に襲撃されたとも言われます。
結婚まであと数日だったのに、若紫こと勝田信子は、若い生命を散らされてしまったのでした。

現代の浄閑寺(画像:Wikipedia)
女子姓は勝田。名はのふ子。浪華(なにわ)の人。若紫は遊君の号なり。明治三十一年始めて新吉原角海老楼に身を沈む。若紫プロフィール楼内一の遊妓にて其(その)心も人も優にやさしく全盛(ぜんせい)双ひ(ならび)なかりしが、不幸にして今とし(今年)八月廿四日思はぬ狂客の刃に罹(かか)り、廿二歳を一期として非業の死を遂けたるは、哀れにも亦(また)悼ましし。そが亡骸を此地に埋(うず)む。 法名紫雲清蓮信女といふ。茲(ここ)に有志をしてせめては幽魂を慰めはや(しずめばや)と石に刻み若紫塚と名(なづ)け永く後世(ごせい)を弔ふことと為(な)しぬ。
※永井荷風『断腸亭日乗』より、若紫塚記(昭和12・1937年6月22日)
- 本名:勝田信子(かつだ のぶこ)
- 生没:明治15年(1882年)生~明治36年(1903年)8月24日没(享年22歳)
- 出自:武家か(諸説あり)
- 故郷:浪速(大阪府)
- 職業:吉原遊女/明治31年(1898年)~
- 所属:角海老屋
- 死因:刺殺(無理心中?通り魔?)
- 墓所:浄閑寺(東京都荒川区南千住)
- 戒名:紫雲清蓮信女
法名(戒名)は紫雲清蓮信女(しうんせいれんしんにょ)。多くの遊女たちが無縁仏として十把一絡げで葬られたのに対して、ちゃんと人間らしく弔われたことから、その別格さがわかるでしょう。
生まれては吉原遊郭の大門を生きて出られた遊女は一握り。若紫もまた、自由を夢見ながら果てたのでした。
苦界(くがい)、死しては
浄閑寺
※川柳(花又花酔)
吉原遊郭には他にも多くの遊女たちのエピソードが伝わっているので、改めて紹介したいと思います。
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