戦国時代も後半になると、大大名は何万という家臣や部下を抱えていました。いざ、合戦になれば、その何万もの兵士たちに、十分な食料や日常品を与えなければなりません。
もちろん、大量の武器や弾薬も調達する必要があります。
しかも、戦いに間に合わせるために短期間で調達するには、専門の納入業者に頼らざるを得ませんでした。そうかといって、見ず知らずの業者に頼ればだまされる危険もあります。
そこで戦国武将は、気心が知れ、少々の無理を聞いてくれる商人たちとだけ取引するようになっていきます。
こうして、いわゆる御用商人が誕生しました。
御用商人は、戦国大名の需要に応じた物資の調達や人夫の調達にあたる特定の商人のことを指します。彼らは、時には他国の情報収集などにもあたることがありました。
これに対して大名側も、商人司などの役職につけて国内の商人の統制を行わせています。
たとえば、武田軍にとっての酒田氏、上杉軍にとっての蔵田氏、今川軍にとっての友野・松木の両氏などは、いずれも戦国大名の御用商人として財を成していきました。
川中島古戦場史跡公園の武田信玄・上杉謙信の一騎討ち像
■「政商」のルーツ
徳川家康も、三河国を支配していた時代から御用商人を持っていました。
特に、江戸幕府成立後に公儀呉服師に任じられることになる呉服商は、単に呉服を扱うだけではありませんでいた。
彼らは兵粮や武具などの軍需物資の確保と輸送・対外交渉など幅広い分野で活躍し、時には家康・秀忠などの当主に近侍して戦場に立つ場合もあったとか。
これが、さらに時代が下ると政商(せいしょう)と呼ばれるようになります。
政商は、広義には政府つまり政治家や官僚とのコネ・癒着により、優位に事業を進めた事業家、あるいは企業グループのことを指します。
戦前日本の財閥はその代表例でといえるでしょう。

三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の銅像
■商人から豪商へ
戦国時代に話を戻すと、こうした御用商人の中から、戦国時代末期にいわゆる豪商が現れるようになります。
彼らが巨万の富を蓄える手段としたのは海運業でした。
たとえば、博多の豪商の島井宗室は、大友宗麟の御用商人として力をつけた後で海運業に乗り出します。やがて、九州一円の海運業や対外貿易にも手を広げて莫大な富を蓄えていきました。

福岡市博多区中呉服町に建つ島井宗室屋敷跡の石碑(Wikipediaより)
茶人でもあった宗室は、本能寺の変の前日に織田信長の催した茶会に招かれています。それほど世間でも認められる存在だったのです。
また、大阪・堺の小西家は、一族が早くから日明貿易に参加していました。そこで力をつけて宇喜多直家の御用商人となると瀬戸内海の海運業にも手を広げ、巨万の富を築きあげます。その後、彼らが秀吉の信頼を得て政商として活躍したのはご存じの通りです。
当時の豪商は、このように海運業や貿易で富を蓄えたため、貿易の中心地だった博多や長崎、堺から誕生しているケースがほとんどでした。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia
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