吉原の各店は、お色気はもちろん口八丁手八丁での作戦で贔屓客を誘惑しましたが、中でも風変わりなのが『甘露梅(かんろばい)』と呼ばれる名物スイーツを進呈する作戦でした。では、甘露梅とはどんなものだったのでしょうか。
■甘露梅は、梅と紫蘇の芳香溢れる銘菓
甘露梅の成立については諸説ありますが、明和5年(1768年)に書かれた『吉原大全』には漬菜や昆布巻と並んで、仲の町の名物として記載されていることから、その頃には既にメジャーな存在だったことがうかがえます。松屋庄兵衛なる人物が製造したのが始まりとされ、茶屋から配られるプレゼントでした。
甘露梅は梅に紫蘇の葉を巻いて砂糖漬けにしたシンプルなものでしたが、その作り方は、五月中旬に遊女や芸者衆が総出で仕込みを始め、種抜きや梅酢に漬けるなどの工程を経てから砂糖に漬け、翌々年の正月になってお年玉に使われるほどに、手間暇がかかっていました。
一見すれば梅干しのようですが、甘露梅は『其はぎれが即ちこの品のいのち』と言われたように歯応えがある青梅を使っており、今で言うカリカリ梅のような食感に近いものだったと思われます。
■川柳にも詠まれ、親しまれた甘露梅
殿方の楽園・吉原で作られた甘露梅は、当時の高級品であったお砂糖をふんだんに使い、ひょっとしたらイケメン男芸者が作ったかもしれない…。旦那様の遊びに手を焼きつつも、甘露梅のお土産を前にすると複雑な心境になる奥様方は多かったらしく、甘露梅は多くの川柳に詠まれています。
『寺からと 女房を騙す 甘露梅』の句は、吉原近辺に寺が多かったのをこれ幸いとばかりに寺参りのお土産と嘘をつく男性の心境を詠んでいます。
一方、『甘露梅 内儀の口に 唾がたまり』は夫を叱責しようとするが、銘菓の味を思うと叱れなくなってしまう女性の視点から詠まれた一句です。

このようにして人口に膾炙した菓子だったためか、甘露梅の名は、全国各地で特色ある梅の和菓子の名称として使われはじめました。
小田原では砂糖漬けにした青梅の代わりに餡入り求肥餅を紫蘇に包んだものが、江戸時代から作られ続けています。
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