江戸時代は明暦の頃、ある商人の娘に「おきく」という子がいました。その娘が花見の時に見かけた際、ある若者に一目惚れをします。
彼女は彼が着ていた着物に似せて振袖を作りますが、間もなく恋の病に臥せったまま17歳で亡くなってしまいます。

■同じ振袖が3年続けて同じ月日に、同じ年齢の娘の棺に…

おきくが愛用した振袖は棺桶にかけられ、文京区本郷の本妙寺で葬儀が行われました。その後振袖は古着屋に売られ、別の若い娘の元に渡ります。ところが翌年の同じ日この娘も17歳で早死にし、振袖と共に同じ寺で葬儀が行われました。

さらに、古着屋を経て、次に振袖を購入した別の娘も、翌年同じ様にして早死してしまいます。結果的に、同じ振袖が3年続けて同じ月日に、同じ年齢の娘の葬儀の棺に掛けられて、同じ寺に来たことになってしまいました。

恐れた親たちが集まり、この着物を本妙寺で焼いて供養をしようということになりました。ところが読経供養して燃やしていると、突如つむじ風が吹いて火のついた振袖は空高く舞い上がり、江戸中を焼き尽くしてしまいました。

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江戸時代最大の災害を与えた明暦大火

この話が、1657年2日間にわたって江戸の町を燃やした火災の原因として、まことしやかに語られています。およそ10万人の死者を出した江戸時代最大の火災事件です。

■江戸の大半を焼いた大火災「明暦の大火」

木造家屋が今より多く、家々が密集していた江戸の町では、火災が一番の災害でした。「火事と喧嘩は江戸の花」と呼ばれるくらいに火事が多かったのですが、一度火が出てしまうと、被害はたちまち甚大なものになってしまいます。


明暦の大火…俗に言う「振袖火事」は武家の失火?はたまた都市計画のために幕府が仕向けたもの?


「むさしあぶみ」より

もちろん、町火消もいましたが、今と違って水道が完備されている訳でもありません。当時の消化方法は風下の家を壊して燃えるものを減らして、類焼を防ぐのが精一杯でした。

そんな江戸で最大の被害を出すことになったのが「明暦の大火」です。

明暦の大火…俗に言う「振袖火事」は武家の失火?はたまた都市計画のために幕府が仕向けたもの?


「むさしあぶみ」より

2日間3回にわたって出火したこの火事は、江戸城本丸、大名屋敷百六〇家、旗本屋敷七七〇家、町屋敷四百町が焼け、死者はおよそ10万人だったと伝わります。特に、火が迫ったため小伝馬町の牢屋敷が囚人を解放したところ、集団脱獄と勘違いした役人が浅草門を閉鎖。逃げ場を失った二万三千人が焼死したと伝えられています。

当時の江戸は80日以上も雨が降らず、強い風が吹き荒れた乾燥状態だったといわれています。確かにわずかな失火でも被害が拡大してしまいそうですが、江戸幕府がこの火事を逆手に取って都市計画を実行したのではないかという説が存在してます。

そもそも明暦の大火の発端からして奇妙なものとなっています。原因となったとされる寺院は普通ならば相当な責任を負うはずですが、大火の後も移転することもなく、幕府からは異例の厚遇をうけています。

実はこの火事、火元は本妙寺に隣接していた武家の阿部家が火元だったと考えられています。ときの老中の屋敷が火元とあっては幕府の威信失墜、江戸復興政策への支障をきたすため、幕府の要請により本妙寺が火元の汚名を引受けたというのがこの振袖火事の真相ではないかと考えられているのです。


また、火災当時、江戸の町の人口は急増し、建物も非常に密集化したために、この時期に発生した火事を利用して幕府が都市計画を目論んだという説も存在しています。事実、大火の後、異例の速さで江戸の再建計画が進められています。

いずれにしても、「振袖火事」には秘められた真相がありそうです。

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