筆者は最近、諸事情につき実家のある横浜と東京都内で、週の半分ずつ生活をしています。まるで江戸時代の「参勤交代」のようだなと感じる今日この頃ですが、筆者の場合は仕事の都合・結婚などによりこのような生活スタイルとなりました。


実際に江戸時代の大名たちが行っていた「参勤交代」とは、どんな制度だったのでしょうか?

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キツすぎてお殿様が死亡!?超ブラックな江戸時代の参勤交代のリアル

■そもそも参勤交代とはいつ、何のために始まったの?

参勤交代とは、江戸幕府が諸藩の大名たちを統制するために定められた政策で、簡単に言えば徳川御三家を含む大名たち(原則として1万石以上)が、「江戸詰め」と自分の領国への在国を1年交代で行うことでした。「参勤」が江戸に行くことを指し、「交代」というのが国許へ戻ることを指していました。

その始まりは、鎌倉時代の武士が「いざ鎌倉」と国許から鎌倉へ往来したことや、豊臣秀吉による「人質徴収」であったと言われています。

妻子はお江戸で人質に!?江戸時代の「参勤交代」って実際はどん...の画像はこちら >>


脇に避けて道を譲る人々/Wikipedia「大名行列」

天下分け目の「関ヶ原の戦い」の後、徳川家康は秀吉が大阪に大名たちの妻子を人質として住まわせていたのと同じように、江戸に「大名屋敷」を設け、大名の妻と子供を住まわせました。

この際、義務として江戸に住まなければならなかったのは各大名の正室と世継ぎとなる子供だけで、側室や世継ぎではない子供は国許に残っても良いとされていました。

各大名は、偶数年に江戸に行くグループと奇数年に行くグループに分けられ、隣接した藩の大名同士は意図的に別のグループとされるなどの決まりもありました。


大名の「参勤」と「交代」は原則として1年交代と定められていましたが、これには例外がありました。例えば関東の大名は、参勤交代の周期は1年ではなく半年でした。

また対馬の宗氏・北海道の松前氏・長崎の黒田氏と鍋島氏などは、遠隔地であること、朝鮮半島などとの外交窓口を担当していたことなどを理由に、それぞれ3年~6年に加減されていました。

■参勤交代の目的とは?

妻子はお江戸で人質に!?江戸時代の「参勤交代」って実際はどんなものだったの?


大名が参勤交代のために江戸と国許間を移動するといっても、現代の私達のようにキャリーバッグ1個だけ引いて…というわけにはいきません。

配下の武士たちを大勢引き連れていくのはもちろんのこと、かかりつけの医師・茶の湯の家元・鷹匠までもが同行し、更には風呂釜(殿様専用)などの備品やそれらを運ぶ人員も同行したため、時代劇でよく見かける「大名行列」となりました。

更に、大名たちは定められた期日までに江戸に到着しなければならなかったので、その妨げとならないように道路や橋などの整備も行われました。


当然のことながら、これらには多大な費用がかかりました。

なぜ江戸幕府は、このような各大名にとって負担になるような制度を作ったのでしょうか?一説には、大名たちに出費を強いて勢力を削ぎ、謀反などを抑えようとしたといわれています。

参勤交代について定められた「武家諸法度」ではこの他にも「城の修理をする際には届け出ること」「結婚には幕府の許可が必要」など、大名の基本的義務が13ヶ条にわたって定められていました。

その後3代将軍徳川家光の時代には19ヶ条に増え、さらに5代将軍綱吉は「武家諸法度」に改訂を加えて「諸士法度」とし、大名だけでなく旗本にも適用しました。

この武家の「基本法」は、将軍の代替りごとに諸大名に読み聞かせられ、違反した大名は厳罰に処されたというから実に恐ろしいですね。

しかしこの厳しさが江戸時代という太平の世を260年以上維持する基盤の1つとなったことは、間違いないでしょう。


トップ画像:「園部藩参勤交代行列図」(南丹市文化博物館蔵)Wikipediaより

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