大抵の方は勝海舟(かつ かいしゅう)、歴史が好きな方なら山岡鉄舟(やまおか てっしゅう)までは思いつくと思いますが、最後の一人で答えに詰まる方が多いようです。
勝海舟(左)と山岡鉄舟(右)、あと一人は?
その答えは高橋泥舟(たかはし でいしゅう)。先の二人と合わせて幕末三舟となりますが、大海原に夢を馳せた「海舟」、剣術や禅を究めた堅固な信念を思わせる「鉄舟」に対して、「泥舟」なんて何だかカチカチ山の狸みたいに沈んでしまいそうな印象です。
しかし、後世「幕末三舟」と称せられるくらいですから、きっとひとかどの人物には違いないはず。
そこで今回は、幕末に活躍した高橋泥舟の人生を紹介したいと思います。
■高橋泥舟ってどんな人?ざっくり三行で紹介
とりあえず、高橋泥舟についてざっくり知りたい方向けにざっくり三行で彼のプロフィールをまとめてみました。
一、 山岡鉄舟の義兄。
一、 槍術の達人。
一、 徳川慶喜の側近として活躍。
お急ぎの方はこれだけ知っておけば十分かも知れませんが、少しでも興味の湧いた方は、もう少しおつき合い頂ければと思います。
■高橋泥舟のプロフィール
高橋泥舟は江戸末期の天保六1835年2月17日、旗本・山岡正業(やまおか まさなり)の次男として江戸で生まれました。

高橋泥舟、Wikipediaより。
その幼名は謙三郎(けんざぶろう)、後に精一郎(せいいちろう)、元服してからは政晃(まさあき)と改名(※泥舟は晩年になって称した号ですが、ここでは便宜上「泥舟」で統一します)。
生家の山岡家は自得院流(忍心流)槍術の名門で、兄・山岡静山(やまおか せいざん)に師事して厳しい修行に打ち込み、やがて海内無双(※1)の腕前と称せられるまでに成長しました。
(※1)かいだいむそう。四方の海すなわち天下に並びなき者や事物を表わす。天下無双に同じ。
やがて母方の実家である高橋家を継ぐために高橋包承(たかはし かねつぐ)に養子入りしますが、兄・静山が27歳の若さで早世すると、山岡家には男性がいなくなってしまいました。

小野鉄太郎(後の山岡鉄舟)。Wikipediaより。
今さら泥舟が出戻る訳にもいかないため、門人の小野鉄太郎(おの てつたろう)に妹の英子を娶らせて山岡家の養子に迎えます。この鉄太郎こそが後の山岡鉄舟であり、かくして二人は義兄弟となったのでした。
■槍一本で伊勢守!その不器用で直向きな忠節
さて、海内無双の槍術を見込まれた泥舟は幕府の武芸訓練所である講武所の槍術指導や、清河八郎の策謀によって解体された浪士組を新徴組(しんちょうぐみ)に再編、その取締役を務めるなど、暗雲立ちこめる幕末期において重要な役割を果たします。
そんな実直な働きぶりが一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ。後の徳川慶喜)の目に留まり、その側近として文久三1863年の慶喜上洛に随行。

槍一本で伊勢守に(イメージ)
この時のことを、後に勝海舟は「(泥舟は)物凄い修行を積んで、槍一本で伊勢守になった男さ。あんな馬鹿は最近見かけないね」などと評していますが、平素から地道に直向きに槍術の修行に打ち込み続けることこそがご奉公の道と信じた、泥舟の不器用な誠実さが偲ばれます。
その後、慶応二1866年に幕府の警護部隊である遊撃隊が組織されると剣客として高名な榊原健吉(さかきばらけんきち)らと共に頭取を務め、倒幕の機運に備えますが、いざ慶応四1868年の戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い)に敗れてからは慶喜に官軍への恭順を説得。
そして降伏後、官軍の総大将たる西郷隆盛(さいごう たかもり)との交渉の使者に推薦されたものの、慶喜はこれに反対。

徳川慶喜肖像。Wikipediaより。
「いっときでもそなたが居なくなれば、誰が余を守り、将兵らを統御するのか」
よほど慶喜から頼りにされていたことがうかがわれますが、それなら我が義弟を、ということで山岡鉄舟を推薦し、勝海舟も加わって江戸城の無血開城が実現したのでした。
■幕府滅亡後・その晩年
慶喜が江戸城から静岡へ去ると、泥舟はこれを護衛。いっとき田中城(現:静岡県藤枝市田中)を預かるなど幕府の残務処理に追われますが、明治四1871年の廃藩置県を機に職を辞し、江戸・牛込矢来町(現:東京都新宿区矢来町)に隠棲します。
晩年は書画骨董の鑑定などで生計を立てていたそうですが、明治二十一1888年に義弟・山岡鉄舟が53歳で没すると、生家・山岡家の抱えた借金の返済に追われることになります。
とりあえず当座の銭を工面しなくてはなりませんが、泥舟には借金の担保にできる土地も財産もありません。
ここで普通なら「おととい来やがれ」となりますが、よっぽど日頃の誠実さが知られていたようで「高橋様なら人を欺くような振る舞いはなされますまい」と、心ある者の助けを得ながら、コツコツ借金を返済していったそうです。
そして明治三十六1903年2月13日、矢来町の自宅で生涯を終え、大雄寺(現:東京都台東区谷中)の墓所に眠っています。享年69歳。
ひたすらに槍術を究め、槍のようにまっすぐ生き抜いて幕末期に重要な役割を果たした泥舟の生涯は、現代の私たちにも誠実な生き方の大切さを教えてくれるようです。
※参考文献:
松本健一『幕末の三舟 海舟・鉄舟・泥舟の生きかた』講談社選書メチエ、平成八1996年
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