「“ドン!”と下からすごい力で築き上げられて、体が宙に浮いて飛び起きました。何が起きたのかわからなくて、近くで爆発でも起きたんかと思ってね。
森本照子さん(70)は、25年前に起きた阪神・淡路大震災の凄まじさを、そう振り返る。1995年1月17日、午前5時46分。淡路島北部を中心としたマグニチュード7.3の直下型地震は、神戸市を中心とした地域の人々の暮らしを一瞬で破壊した。森本さんは、とくに被害が大きかった神戸市長田区の老舗商店街・菅原市場で、生花店「花恋」を営んでいた。
「震災が起きた17日は、店を新装開店する日でした。夜中まで準備して、午前3時ごろに寝たばかりでした」
地震が起きた時は、真冬の朝6時前。少しずつ空が明るくなっていく中で、森本さんが見た光景は信じがたいものだった。商店街はみな1階の店舗が潰れ、2階が道路にせり出すように道を塞いでいたのだ。建物の下敷きになった人々から、「助けて!」の声が響く。近所から出火した火の手が菅原市場周辺の店舗に迫ってきたのは午前7時前だった。近所の小学校に避難した森本さんは、テレビで商店街が焼け落ちる様子を見たという。
「翌日、店に行ってみて愕然としました。
もう花屋は無理や。諦めよう。
憔悴しきった森本さんの心に、一筋の希望の光をともしたのが、美智子上皇后(当時は皇后)だった。
震災から2週間後の1月31日、当時の天皇皇后両陛下は焼け野原となった菅原市場をご訪問。その際、美智子さまは皇居に咲いていたスイセン17本を摘んで自ら花束にしてお持ちになり、焼け焦がれたがれきの上に献花された。
「白いスイセンと、グリーンのラッピングが清楚でね……。私、花屋を20年以上やっていたけど、あんなにストレートに“頑張って”という思いが伝わってくる花束は、みたことも作ったこともなかった。地面にはいつくばって花束に顔を近づけました。焼け焦げたホコリっぽい臭いの中に、そこだけ花の香りがして……。なんて力強んやろう、と。
若い頃から働きづめで、やっとここまできた。震災で過去も未来も全部失って、残ったのは600万円の借金と罹災証明だけ。当時45歳だった森本さんにとって、再起は難しく思われた。
あの花束を目にするまではーー。
ここから、再建への戦いが始まった。
被災者用の仮設住宅は抽選で、なかなか当たらない。森本さん夫妻は、避難所になっている近くの小学校の校庭にクルマを停めて、2年もの長い間、車上生活を送った。
「家もないし、働く場所もない。車上生活しながら、露店で花を売り始めたんです」
森本さんは、付き合いの深い花市場に頼み込んで仏花を仕入れ、それをクルマに積んで近所の墓苑のそばで販売するようになる。本来ならば墓苑の前で花を売ることはできないというが、「震災で花がないときやから、と墓苑の偉い人が目をつぶってくれて」と森本さんは語った。
日々節約しながら地道に開店資金を準備し、迎えた2009年12月。兵庫区で、「花恋」の再オープンを果たした。震災から14年目の冬だった。
「また地震が起きたらどうしよう、と思ったらオープン前日は怖くて怖くて。無事に初日を迎えられたときは、大泣きに泣きました」
つらい時は、あのスイセンの花束を何度も何度も思い浮かべた。震災から25年。森本さんは店をリニューアルした。震災で失われた時間を振り返りながらこう語る。
「私も今年で70歳。いま50歳やったら、どんだけいいやろうと思います。もっとお客さんとつながっていられるから。でもね、だからといって急ぐことなく、ゆったりと死ぬまで花屋として花束を作っていたい。
「女性自身」2020年1月28日号 掲載