花曇りの平日の昼下がり。多摩川の川べりに広がる公園の緑は次々と輝きだし、その香りを穏やかな風が運んできた。

シャボン玉を飛ばす数人の女子学生の姿が遠くに見える。ポリポリと頭をかくのはタレントで漫画家の蛭子能収(73)。傍らにいる妻の悠加さん(54)がその様子を見て目を細める。

紺のジャケットをそれぞれ羽織った2人は、ゆったりした時間が流れる緑地公園を巡る。菜の花畑が見渡せる橋で足を止めて、

「うわーキレイや」

蛭子さんが声を上げる。

「キレイだね。

花なんて興味なかったのにね、よっちゃんは……」

悠加さんはつぶやき、グレーのキャスケット帽のつばを上げて春の空を見上げた。

悠加さんが「よっちゃん」と呼ぶ蛭子さんは20年7月に放送されたテレビ番組『主治医が見つかる診療所』(テレビ東京系)でレビー小体型とアルツハイマー病を併発している初期の認知症と診断された。それに伴い、今年4月27日(火)には単行本『認知症になった蛭子さん~介護する家族の心が「楽」になる本』(光文社)が発売。病気は、世間に公表された。

蛭子さんの肩にすでに散りきった桜のがく筒が落ちてきた。悠加さんは指先でそれをつまみ、肩口を軽く手で払った。

「悪いね」と口にする蛭子さん。

「このごろ、よっちゃんは『ありがとう』と言ってくれるようになったんです。これまで『ごめんね』や『ありがとう』という感謝の言葉を聞いたことがありませんでした。この前は、どら焼きをおやつに出したら『いつもありがとう』と言ったから、思わず聞き直してしまいました。これも認知症の症状の1つだとしたら……よかったんですよね」

悠加さんはそう語ると、蛭子さんの手を握って再び歩きだした。

17年から3年間で、悠加さんは4回、救急病院に駆け込んでいる。

ストレスからくる急性胃腸炎だった。さらに、彼女より30kgも重い蛭子さんの入浴やトイレの介助を1人でこなしたことで、ひざの半月板はボロボロの状態に……。

20年7月に認知症であることをテレビで公表したのは、悠加さんの心のSOSからだった。

「かかりつけ医にあらためてテストしてもらったところ、認知症を発症した可能性が高いことを指摘されました。それについて所属事務所の社長とマネージャーさんと相談したところ、お世話になったテレビ番組のなかで公表することになったのです。

病気を売り物にするなんてと批判されるかもしれません。

でも、私だけではギリギリの状態。3年間ずっと睡眠はろくに取れずに、日中も混乱したよっちゃんがそばにいる。私の何がダメだったからこんなことになってしまったんだろうと自問自答しては悩むばかり。共倒れになる寸前でした」

蛭子さんが認知症と診断された様子がオンエアされた2日後、要介護認定が下り、公的な介護サービスを受けられるようになった。ケアマネジャーは、蛭子さんのためにショートステイ(短期入所生活介護)を受けることを提案。とにかく悠加さんの睡眠時間を確保することを優先させた。

──それから半年が過ぎた。

蛭子さんは、当初、介護施設に泊まることに戸惑っていたが、最近は慣れてきたという。薄曇りの空から優しい光が差してきた。遠くで蛭子さんが満開の笑顔で写真に納まっている。その様子を見ながら悠加さんが語る。

「実は、認知症になる直前まで、2人で連日のように離婚に向けた話し合いをしていました。

出会ってから20年近く、私なりに“蛭子能収の妻”になろうと努力してきました。でも、よっちゃんの心のなかには亡くなった前妻の貴美子さんの存在がいつまでもあり、どんなに私が尽くしても夫婦にはなれない。あるとき、ふと、よっちゃんは私ではなくて貴美子さんと添い遂げたかったんだろうな、と思えることがあり、それで別れようと考えたのです。そのうち認知症の症状がひどくなり、離婚どころの話ではなくなりましたけどね」

悠加さんがまぶしそうに空を見上げながら、さらにこう続ける。

「でも、しっかり睡眠を取れるようになり、ひざの治療にも行けるようになり、心に余裕ができたのかもしれませんね。今なら、よっちゃんのことも理解できます。離別ではなく死別でしたからね……。それに認知症が進行していくにつれて、亡くなった奥さんの存在が主人のなかで薄まってきたのかもしれません……。いずれ、私のことも忘れていくかもしれません。でも、認知症になって、ようやく夫婦になれた気がします」

悠加さんは前妻をライバル視していたわけではない。蛭子さんが運転できたころは、月に一度の墓参りに欠かさず付き添い、その後も、近くの大師で毎月、護摩供養をしている。

ただ、悠加さんはいない相手と闘っていた。理想の妻になる。いや、ならなくてはいけない──。蛭子さんの認知症は、そんな悠加さんの呪縛を解き放したのかもしれない。

「女性自身」2021年5月11日・18日合併号 掲載