「妻は本当に関係ないところで大変だったと思いますし、気持ちの強い人ではなかったので迷惑を掛けたと思いますし、その中でここまでサポートしてくれてありがとうございましたと、あらためて言いたいですね」
10月19日、こう話したのはプロ野球・松坂大輔選手(41)だ。同日、引退会見を行った松坂。
横浜高校時代の’98年、夏の甲子園での優勝に大きく貢献した松坂。“平成の怪物”と呼ばれ、同年度ドラフト1位で西武ライオンズに入団。プロ1年目で16勝を果たし、’99年の新人王に輝いた。
そして’04年に松坂は結婚を発表。そのお相手が、倫世夫人だ。以降、17年もの野球人生を共に過ごしてきた。
「’05年12月に第一子が誕生したあと、松坂さんは’07年、メジャーリーグに進出。ボストン・レッドソックスに移籍しました。それに伴い、『彼の夢を支えたい』という気持ち一心で倫世夫人もお子さんと一緒に渡米。’08年3月と’10年3月にも現地で出産し、子宝に恵まれました」(スポーツ紙記者)
松坂とは5つ年齢が離れた、姉さん女房である倫世夫人。そんな彼女こそ、これまで“怪物”を引っ張ってきた張本人だ。
「松坂さんはああ見えて、実は小心者なところがあるんです。倫世夫人はその弱点を改善すべきだと考えていたといいます。
例えば松坂さんがプロポーズしたのは、’01年のこと。当時日本のプロ野球で3年連続最多勝のタイトルを獲得し、そのタイミングで松坂さんは結婚を申し込みました。ところが倫世夫人は『アテネ五輪の’04年まで交際が続いていたらね』と発破をかけたそうです。『この3年で1人の人間としてもっと強くなってほしい』と考えていたそうです」(前出・スポーツ紙記者)
■食生活のサポート。そして、育児をひとりで
精神面の“トレーニング”だけでなく、食生活のサポートも倫世夫人は欠かさなかった。食事はアスリート生命を左右するもの。スポーツ選手のパートナーは自ずと、気にかける比重が大きくなる。
「松坂さんは自己管理にまったく興味がなかったんです。ですから倫世夫人は口酸っぱく食事の大切さを説き、さらに自ら栄養学も学んだといいます。10~20品もの料理を毎食振る舞い、アメリカでもできる限りヘルシーな和食メインで。
さらに倫世夫人は、“ひとりで”育児にも奔走していた。
「松坂さんは多忙ですから、『子育てを頼むことは絶対にできない』と倫世夫人は考えていました。そこで育児本を読んだり、周囲の意見を取り入れたりと奮闘したそうです。いっぽう、気負いすぎて自分を追い込んでしまうこともあったといいます。
しかし次第に松坂さんは、合間をみては育児に参加することに。またママ友ができたこともあって、アメリカでの育児を倫世夫人は楽しめるようになったといいます」(ボストン在住の日本人)
松坂はレッドソックスでも大活躍を果たし、チームのワールドシリーズ制覇にも貢献した。しかし身体の不調を訴えるようになり、’11年6月に右肘を手術。’12年ごろから成績不振となり、’13年にクリーブランド・インディアンスとマイナー契約。そして’14年にはニューヨーク・メッツと契約した。
■倫世夫人の誇り「一番の親友というのが私の役目」
メジャーのチームを渡り歩いた後、松坂は帰国し福岡ソフトバンクホークスに入団。倫世夫人と子供たちはアメリカに残ったため、“単身赴任”という形をとることとなった。日本球界へと復帰したものの、直後に右肩の筋肉疲労が判明。
「ホークスとは『3年12億円+出来高払い』という超大型契約を結んだものの、1球も投げないままシーズンを終えることに。『給料泥棒!』と揶揄するファンもおり、松坂さんは『もう二度と投げられなくなってしまう夢ばかり見るんです』と引退を示唆することもあったそうです」(球団関係者)
心が弱り、引退に傾く松坂ーー。そこで待ったをかけたのが倫世夫人だ。
「内視鏡手術を間近に控えたとき、倫世夫人は3人の子供とともにボストンの自宅から松坂さんのもとへと向かったそうです。そこで『今は苦しいだろうけど、最後まで悔いのないようにしなきゃ!』と背中を押したんです。その結果、松坂さんも奮起できたそうです」(後援会関係者)
その後、中日ドラゴンズに入団し、再び西武ライオンズに舞い戻った松坂。そして引退ーー。
彼を奮い立たせてきた姉さん女房は、ときに“恐妻”といわれることもあった。しかし、そこには「夫に栄光を」という強い思いがあったからなのだろう。
「松坂さんはプロ生活のなかで不調が続いたため、焦りもありました。それは『子どもたちに活躍している姿を見せていない』という焦りです。
倫世夫人は松坂さんのパートナーであることを誇りに思っていて、『日本でもアメリカでも、彼の一番の親友というのが私の役目』と語っていました」(前出・スポーツ紙記者)
サポートしてくれてありがとう。その言葉に、倫世夫人の喜びもひとしおだろう。