住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、あんなふうになりたい! とあこがれたアイドルの話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょう――。
「’84年、生番組で『××××』と放送禁止用語を言ってしまって、2年ほど芸能界での仕事がなくなり、謹慎期間が明けてもテレビの仕事はなかなか来なくて……。心が折れそうになったとき、ママドルとなった松田聖子さんの自己プロデュース力を目の当たりにして“自分ならではの仕事ができるはず”と奮起できたんです」
こう語るのは、幼いころからテレビが好きで、アイドルが好きだった松本明子さん(55)。やはり衝撃的だったのは、松本さんが中2のときにデビューした松田聖子だ。
「毎月、雑誌の『明星』『平凡』『近代映画』を買ってもらって、付録のソノシートを集めたり、聖子ちゃんのポスターを部屋に貼ったり。聖子ちゃんの写真を引き伸ばしたパネルが景品だったお祭りの射的に、何度も挑戦したこともありました」
“聖子ちゃんのようなアイドルになりたい”と、女のコなら誰もがあこがれた時代。しかし松本さんの場合、その思いが強すぎたよう。
「高校受験で、芸能人がたくさん通う堀越高校を受けました。私の場合、芸能コースではなく普通科でしたが、堀越に入ることがアイドルへの早道だと思ったんです」
■壁になった’82年組の存在
いまでも、上京した日のことは忘れられない。
「生まれ育ったのは四国の田舎。瀬戸大橋もかかっていない時代です。『ズームイン!! 朝!』(’79~’01年・日本テレビ系)が取材に来てくれて『いま歌手を夢見て上京する1人の女のコが、連絡船に乗っています』って、中継までしてくれたんです」
父親の親戚宅に下宿し、堀越高校に通いながら、オーディションを受けては落ちる日々。
「ホリプロタレントスカウトキャラバンなどのオーディションに応募したけど、全然ダメで。
同じ回には、本田美奈子.さんや徳永英明も出場していた。
「美奈子.ちゃんは14歳くらいだったんだけど、抜群の歌唱力でした。当時、20歳くらいでお兄さん的存在だった徳永さんが中心になって、本番前に『みんなで頑張ろう!』と円陣を組んで臨みました」
聖子のサードアルバム(’81年)に収録されている『~オレンジの香り~Summer Beach』を披露し、渡辺プロからスカウトを受けると、高2から念願の堀越高校芸能コースへ編入し、寮生活を始めた。
デビューは’83年。メークやスタイリストは事務所の先輩であるアン・ルイスのチームから選出されるほどの力の入れようだった。
「デビュー曲の『♂×♀×Kiss(オス・メス・キッス)』は、アイドルソングというより、ちょっとロックテイストのあるものだったんですが……。田舎で育った私にロックは無理があって、オリコンも最高順位が131位と、売れませんでした」
前年デビューした’82年組の人気の高さも、大きな壁となって立ちはだかったという。
「テレビの水泳大会でも、’82年組がプールサイドで歌っているところで、私は競泳とか騎馬戦に出場していましたから。私の歌は、BGM的な扱いでした」
■スタッフに羽交い絞めにされ、スタジオからつまみ出された
伸び悩みを感じていたとき『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』(’74~’85年・ニッポン放送)の土曜アシスタントに抜擢された。ところが――。
「レギュラーになって約半年後、(片岡)鶴太郎さんが司会の『オールナイトフジ』(’83~’91年・フジテレビ系)とコラボして、テレビとラジオの2元生放送をする回があったんです。
そのとき、鶴光さんと鶴太郎さんの悪ノリに乗せられて、つい放送禁止の4文字を口にしてしまって」
その瞬間、スタジオの雰囲気が一変した。
「スタッフに羽交い締めにされて、スタジオからつまみ出されました。マネージャーには『すぐに寮に帰れ!』とタクシーに押し込まれて、“これは大変なことをしてしまった”と……。翌日、スポーツ新聞でなく、朝日新聞の社会面に『新人アイドルが、生放送で放送禁止用語発言』と報じられました」
スケジュールが真っ白になり、学校と寮を往復するだけの日々に。
「堀越高校の芸能コースは、仕事が忙しくて休んだり、単位が取れないことが“売れている”証しであり、ステータスだったのに、私は学級委員までやっていました。同じクラスには’82年組の堀ちえみちゃんや早見優ちゃんがいて、定期テスト前になると、テスト範囲をまとめた紙を作って、各事務所にファクスするのが私の役目。ちえみちゃんはよく上履きを盗まれていたので、下校時に下駄箱をチェックして、盗られていたら、購買部で買って補充していました」
仕事がなく、毎日のように寮のある国立駅前のベンチで泣いていた。そんなとき、同じ事務所の中山秀征が声をかけてくれた。
「渡辺プロは歌手班、ドラマ班、バラエティ班と分かれていたんですが、秀ちゃんが『姉さん、歌手班は居心地悪いでしょ。僕のいるバラエティ班に来ない?』と誘ってくれたんです。それが大きな転機になりました」
すぐにテレビに復帰できたわけではない。当時、中山が組んでいたお笑いコンビ、ABブラザーズの営業先に同行して、前座で歌うことから始めた。
■体を張って切り開いた新境地
少しずつ仕事が増え始めたころ、やはり目標となったのはママドルとなった聖子の存在だった。
「ママになっても、すごくかわいくて。生涯アイドルを続けられるのは芯の強さ、スター性、歌唱力もあるでしょうが、自己プロデュース力だとも痛感しました」
思い描いていたアイドルではなかったが、松本さんは芸能界に残るためキャラクターを模索した。
「歌える場があることがうれしくてものまねにも挑戦。カラオケに行くお金もなかったから、下宿先で布団をかぶって歌の練習をしていました」
こうした努力により、ものまねの女四天王と呼ばれるほどに。’90年代に入ってからは『進め!電波少年』(’92~’98年・日本テレビ系)に出演。
「ダイアナ妃の遺志を継いでタイとカンボジアの国境の地雷を撤去したり、アポなしでアラファト議長に会うために、ガザ地区に行ったりしました」
体を張ったバラエティで新境地を開いたことこそ、松本さんの自己プロデュースだったのだろう。
もちろん、現在でもアイドルへのあこがれは持ち続けている。来年1月23日には、松本さんが中心となり、浅香唯、西村知美、森尾由美、布川敏和らと『黄金の80年代アイドルうたつなぎ』と題したコンサートを開催する。
「’80年代、夢を与えてくれたり、苦しいときに心の救いになったアイドル曲を、歌いまくろうと思っています!」