「その人の顔を見た瞬間、どんな言葉をかけてほしいか、私にはわかるの」、天台寺や京都寂庵での法話、インタビューなどで数々の名言を生み出してきた寂聴さん。言葉の達人であるだけではなく、心を癒す達人でもありました。

今回登場してもらったのは寂聴さんと縁で結ばれていた人たち。それぞれの「私を救ってくれた寂聴さんの言葉」を教えてもらいましたーー。

■「あなたは歌を歌うことで施しをしている」ーー歌手・中村美律子さん(71)

「先生には私の曲『風まかせ』の歌詞を書いていただいたこともありました。先生はあまり歌番組は見ないそうですが、たまたま寂庵のテレビで私が歌っている姿を見て、気に入ってくださったのだそうです。

『なんて大きな口を開けて歌う女なんでしょう! ブラウン管からはみ出しそうなほどに大口を開けているわ』、そう秘書の方におっしゃっていたとか。それがご縁で旅番組の共演を誘ってくださったり、作詞をしていただいたりしました。’05年ごろの話ですから先生は当時80歳を超えていましたが“泣き言メール”など、詞がお若くて驚きましたね。

なんでも素直にお話しできる方でした。でも悩みがあったり、つらいことがあっても、寂庵でお顔を見るだけで、そんなことは忘れてしまうぐらい先生の笑顔にはパワーがあったんです。

特に’11年にお会いしたときのことは忘れられません。『いくつになった?』と、聞かれたので、私の年齢をお答えしたら、『あんたの年じゃないわ。盲導犬の数のことよ(笑)』と。

私が毎年、全国の地方自治体などに盲導犬を寄付していることを覚えていてくださったのです。おそらくそのときは35頭ぐらいだったと思います。

’11年は東日本大震災が発生した年です。私たち演歌歌手も、北島三郎先生が中心になって義援金を送ったり、現地で慰問のために歌ったりしていました。でも被災地の悲惨な光景を見てしまうと、『皆さんが喜んでくれるけど、「河内おとこ節」みたいな曲を笑顔で歌っていていいのかな、もっとほかにできることはないのかな……』なんて、悩んでしまっていたのです。その気持ちをもらすと、先生はこう励ましてくださいました。

『何を言っているのよ。あなたは歌を歌うことで、いろいろな人たちに施しをしているんだから、自信をもって歌いなさい』
『“施し”なんて、そんなおこがましいです……』
『そんなことないわよ。寂聴が言っているんだからいいの。寂聴がそう言っていたって(人にも)伝えなさい!』

力強いお言葉に、体に元気が湧いてくるようでした。

それから10年、’21年11月30日に私はデビュー35周年記念コンサートを行ったのです。8月の初めに先生に激励コメントをいただけないかお願いしました。

すると次のようなコメントが。

《歌手としてだけでなく、盲導犬の世話をしたり、人柄がとても温かいのでずっと仲良しです。100年の人生の中で35年はまだまだ若々しい。これからも円熟の歌を唄い続けてください。寂聴》

コメントはコンサート会場でも紹介させていただきました。先生のお言葉がすごくうれしくて、会場では思わず、『あと35年はやろうと思っています!』と宣言してしまったほどです。

そのころには先生のお年も超えています。まだ大口を開けて歌っている私を見て、先生は笑ってくださるでしょうか」

■「愛することは、許すこと。それが究極の愛です」ーー秘書・瀬尾まなほさん(33)

「『京都に住んでいるのがつらい』、先生が亡くなって半月後ごろから、そう思うことが多くなりました。

先日、先生が通っていた病院の近くに所用で行ったとき、『ああ、この病院に何度も一緒に来て、帰りに2人でお茶したこともあったな』と、なつかしい風景が蘇りました。その喫茶店に1人で入って、先生と向かい合って座った席で、フレンチトーストを『おいしいね』と、2人で半分こしたことを思い出しました。こうした先生とのちょっとした外出先での出来事が、私の記憶に、しっかりと残っているのです。

ふとスマホでメールを見ると新着が……。私が読売新聞に書かせていただいた瀬戸内先生の思い出の記事のゲラ刷りが送られてきたのです。先生が亡くなってからめまぐるしい日々が続き、悲しみにくれる暇もなかった私ですが、先生と座った席で、思い出をつづった原稿をスマホの画面で読み直すうちに、涙があふれました。

京都タカシマヤの前を歩けば、ジーンズとセーター、ニット帽で変装した先生とお買い物をして、帰りにとんかつを食べたっけ……など、秘書を務めるようになってからはどこへ行くのもいっしょでしたから、京都には先生との思い出の場所がありすぎて切ないのです。これまでは『また』があったのに、もう二度とないのですから。

いまでもどこかでちょっとおいしいものを見つけると、『あ、先生に買って帰ろう』と思ってしまう。でも『おいしそう!』と子供のように喜んでくださった先生はもう寂庵にはいません。

先生と出会い、間近で暮らしているあいだに、自分の才能を先生にたくさん見つけていただき、私の人生には思いもしなかったことが次々に起こりました。

それに先生は『秘書として私の後ろに控えていなさい』ではなく、『私の前に行け』と、自信のない私の背を押し続けてくれる人でした。なかでも私が『おちゃめに100歳! 寂聴さん』(光文社)を出版した後、いっしょに記者会見したときの言葉は忘れられません。

『私の人生も残りが少なくなっています。どうか私が死んだ後も、このまなほをよろしくお願いいたします』、そう言って、記者の皆さんに深々と頭を下げてくださったのです。

そのときのことをいま思い返すと、すごいことだったな、と。先生が私のために頭を下げてくださっただなんて。

先生の天台寺での法話や講演旅行には必ず同行してお話を聴いていましたから、たくさんの先生の言葉が耳に残っています。たとえば、人も動植物も万物は次々に生まれては、止まることなく変化していくという『生生流転』。

自分の利益を脇に置いて人の利益や幸せのために尽くしなさいという『忘己利他』などは、抵抗なく私の皮膚の内側に張りついているようです。

でも実はいちばん印象深く耳に残っている言葉は……、晩年が近づいてから先生がよくおっしゃっていた『愛することは、許すこと。それが究極の愛です』という言葉なのです。たとえば夫が不倫したとすれば、私は一生許さないでしょう。『愛することは許すこと』、この言葉の意味の深さを私はまだ受け止めることができません。

先生のように心が大きな人になって、この言葉を心から言えるようになるには、どのくらいの人生経験を積めばいいのでしょうか。

瀬戸内先生、私はいつか先生のような優しい人になりたいのですが、一生なれそうにありませんーー」

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