「これは羽生が小学2年生のころ。ちょうど私が彼の指導を始めたときの写真です」

幼い羽生結弦(27)との写真を見つめて、懐かしそうに目を細める都築章一郎さん。

都築さんの手元には、分厚い3冊のスクラップブック。その中には、教え子の羽生の写真と記事が、たくさん収められている。

「なかなかこういう出会いは難しいと思いますが、私は幸いにもこういう子と出会った。これは私の人生の、本当に、宝です」

羽生との20年近い思い出を記者に話すうちに、都築さんの目は涙でいっぱいになっていった。

1月に84歳になったという都築さんは、いまもアイスリンクに立つフィギュアスケートの指導者だ。フィギュア界では名伯楽として知られる。

現在はフィギュアスケート評論家として活躍する佐野稔さん(66)を小学生のころから指導し、一流選手に育成したのも都築さんだ。佐野さんは日本男子で初めて世界選手権のメダリスト(’77年)に輝いている。

「なんかバカの一つ覚えでね、スケートやってきましたけど」

自らについてそんなふうに話す。そうやって60年以上の時間を情熱的にフィギュアスケートと向き合ってきたなかでも、羽生との出会いは特別だ。

「小学2年生(7~8歳ごろ)から仙台のリンクで指導をしました。数年してそのリンクが経営難で閉鎖したので私は職場を失って、仙台を離れました。

羽生は、市内の別のリンクで練習できるようにしてもらって。ただその後も、週末には、ご両親と一緒に、私が指導する横浜のリンクにレッスンを受けに来ていたので、高校1年生ごろまでは教えていますね」

この出会いが特別だったのは、羽生にとっても同じなようだ。北京五輪での会見で、羽生は4回転アクセル(4回転半ジャンプ)に挑んできた原動力として、「9歳の自分」を引き合いに出した。

《今まで4回転半を跳びたいと目指していた理由は、僕の心の中に9歳の自分がいて、あいつが『跳べ!』ってずっと言ってた》

この9歳のころに指導していたのが、都築さんである。

■羽生が言った「あと3年半くらい時間をください」

都築さんが指導を始めた初期から、幼い羽生に熱心に伝えていた言葉がある。

「アクセルは王様のジャンプ」

当時の羽生が跳んでいたのはまだシングルアクセル(1回転半)だったというが、羽生の4回転アクセルへの挑戦はこの言葉があってこそなのだ。

「昔からこの世界では、そんな言葉が使われてきたんです。アクセルというのは唯一前向きに踏み切るジャンプで、特別なんです」

そう話す都築さんの脳裏には、ダブルアクセル(2回転半)をうまく跳べなかったころの羽生の姿が焼き付いている。そのころが、まさに9歳。

「周囲の同世代がダブルアクセルを跳べているのに、羽生はなかなか跳べない時期がありました。当時、あまりジャンプがうまいほうではなかったんです。彼としては悔しかったんじゃないでしょうか。

必死にダブルアクセルを覚えようとしていましたよ」

“アクセルへの執念”が生まれた瞬間だったのかもしれない。羽生はこの“9歳”で、全日本ノービスで初めて優勝し、才能を本格的に花開かせ始めていた。

「基礎をかなり細かく指導しました。私は羽生に世界にはばたいて挑戦する選手になってほしいと思っていました。基礎がしっかりすれば、2回転半の次は3回転半、そしていずれは4回転半につながる、と考えていましたね」

都築さんは当時から羽生に「オリンピックに行こうね」と声をかけていた。その言葉どおり、羽生はオリンピックへ。しかも金メダルを取る。2回も。

そして、次に羽生が目指したのが4回転アクセル。都築さんは、その挑戦もずっと見守ってきた。

’18年の平昌五輪の後には4回転アクセルの進捗について、羽生に直接聞いたことがあった。

「私がコーチをしている横浜のリンクにエキシビションで来てくれたことがあったんです。

そのとき、私は羽生に『4回転半はどうだ?』と尋ねました。そしたら『ああ都築先生、あと3年半ぐらい時間をくださいよ、ちょっと待ってください』という言葉が返ってきましたね。

あと3年半というのは、要するに今回の北京五輪までに4回転アクセルを完成させる夢を持っていたということですよね。彼の頭の中にそういう未来への設計図があって、そこに向けてトレーニングしてきたのでしょう」

そして北京五輪での4回転アクセル挑戦。都築さんは顔をほころばせる。

「転びこそしましたけれど、ISUに認定された。本当に素晴らしかったですね。よくやったと思います」

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