「今年、コロナ禍で1年遅れとなりましたが、母の七回忌の法要をすませました。’14年に89歳で亡くなってから8年になります」

そう語るのは、ニュースキャスター・ジャーナリストの安藤優子さん(63)。

安藤さんは、報道番組のメインキャスターを務めながら、約15年にわたり姉、兄と共に認知症の母・みどりさんの介護をおこなってきた。

「母が73歳くらいで、存命だった父と2人で暮らしていたときのことです。母が、突然マンションのベランダに出て『飛び降りてやる』と叫んだそうなんです。それから母はふさぎ込むようになって、精神的にも不安定に。今、振り返ると、老人性うつの症状が出ていたのでしょう」

しばらくして、みどりさんが玄関で転倒し起き上がれなくなった。

「翌朝、救急車を呼びましたが8階の自宅までストレッチャーが入らず、はしご車で運び出される大騒ぎに。

母はケガもなく無事でしたが、近所に醜態をさらしたという羞恥心から、1週間部屋に引きこもってしまったんです」

それでも父が買い物や料理をこなし、暮らしを維持していたという。しかし、’06年に父が膵臓がんで他界して以降、みどりさんに認知症らしき症状が一気にあらわれ始めた。

「家の中はめちゃくちゃでした。押入れの中にはトイレットペーパーが山のように詰め込まれていて、床には犬の排せつ物が散らかっていたんです」

週に2回ほど、昼間はヘルパーさんに来てもらうようにしたが、そこでもトラブルが頻発した。

「母にとっては、知らない人が家にいることや、母にとって“城”であるキッチンに入ったり、冷蔵庫を開けたりすることがガマンならなかったんでしょうね……。来る人来る人“もう来ないで!”と勝手にクビにしていたんです。

介護制度があっても、本人が拒否したらしょうがありません。家族で面倒を見るしかなくなりました」

■母を施設に入れると「恩知らず」と罵られた

平日は姉が面倒を見て、安藤さんは金曜の番組収録後に実家に向かい掃除、洗濯、1週間分の料理をこなす。しかし、安藤さんは土日であってもニュースがあれば現場に駆けつけなければならない。

「土曜日、母のところで家事をしていると大きな地震が起きて、局へ緊急呼び出しがかかったことがあります。そのときも、すぐに向かいましたが、母を1人にすることが不安で不安で……。IHでさえも鍋を焦がしたことがあり、火の元は特に心配でした」

家族だけでの介護は、安藤さんたちに思った以上の負担を強いた。

「一緒にいると母は用もないのに30秒に一度は私を呼ぶ。一緒にいなくても、毎朝10回は電話が来る。姉にも同じです。『いい加減にして!』と何度も衝突しました」

認知症の症状の一つである、被害妄想も安藤さんを苦しめた。

「もともと大らかで社交的だった母が、人が変わったようにえげつない妄想や、むき出しの言葉を吐き出すんです。助けてくれようとしている人に対してひどい言葉を発する母が許せませんでした」

なんとか1年間は気力を振り絞って母の介護を続けたが、その1年で、家族全員が心身ともにボロボロの状態にまで追い込まれた。

「もう家族だけでの介護は無理。そう思って、高齢者施設を探し始めました。3人で何十軒も見学に行って、入所する施設を決めたはいいものの、施設に入りたくない母を連れて行くのも骨が折れて。’10年に『家の水道工事があるから』と、嘘をついて施設へと連れて行きました。けれど、頭のいい母はすぐに感づいて『家があるのになんでここにいなきゃいけない』『恩知らず』と、罵詈雑言の嵐。さすがに心が折れました」

相変わらず、知らない人に介護されることを拒んでいたみどりさん。

入浴補助をするスタッフをつねり「訴えてやる」と暴言を吐く。施設から逃げ出し家に帰ろうとしたこともあり、安藤さんの罪悪感は日に日に増していった。

「母から罵倒されたことや“施設に入れた”ことへの後ろめたさでいっぱいになって、『もう私が引き取ろう』と思ったんです」

■在宅介護を引き留めたお手伝いさんの言葉

安藤さんを思いとどまらせたのは、安藤さんの家に勤めていた元看護師のお手伝いさんだった。

「『優子さんが海外に行っているときどうするんですか? 夜中は誰がお世話するんですか? あなた1人での介護は無理。できないことを一時の感情にまかせて言わないで』そう、諭されました」

このことが安藤さんにとっては、大きな転換点となった。

「この言葉がなければ、私は1人で母の介護を抱え込むことになっていたでしょう。

以前、介護殺人に関する本を読んだことがあるのですが、あのとき母を引き取っていたら、他人事ではなかったと思います。それくらい大きな岐路だったと思います」

その後、みどりさんは半年ほどかけて、施設での暮らしを少しずつ受け入れていった。

「介護士の方が上手に話を聞いてくれたりして、母は徐々に心を開いていきました。それに、プロの方々は介護される側に最小限の負担でケアすることができます。おむつ一枚替えるのも30秒以内で済ませられるんです。私たちが無理して介護することは、介護される側もつらいんだと感じましたね」

入所から1年後、母のみどりさんは「臨床美術」と出合う。ハワイ好きのみどりさんは、ハワイの写真を見たり、フラの音楽をかけながら、専門家の指導の下で週に1度絵を描いた。

「最初は落書きのようでしたが、あるとき、アンスリウムの花を描いたんです。母は、その絵を描いたあと『よく、できた』と絞り出すように言いました。このことは、認知症になってから、自分を否定し不安や怒りの中にいた母が、自己を肯定するきっかけになったようで、その後、認知症の症状が落ち着いていったんです。こうやって母を楽にすることも、家族だけで介護していては思いつかなかったかもしれません。私も目の前にいる母を肯定することができ、関係修復のきっかけになりました」

’14年、みどりさんは朝ご飯を最後の一口まで食べたあと、穏やかに旅立っていった。

壮絶な介護経験を経て、安藤さんが痛感したのは介護における“第三者”の大切さだ。

「家族で抱えてしまいがちな介護の問題。でも、どうか家族以外も頼ってください。それが、自分も親も救うことにつながるんです」