【前編】精神科医・香山リカさん 北海道で僻地医療を「自分をだますのはやめました」より続く
マスコミで活躍している有名文化人は、母、そして尊敬する医師の死に直面。60代を迎え、新たな生き方を選んだ理由ーー
メガネがトレードマーク。
生い茂る林のあいだを伝う車道はカーブが多い。あいにくの荒天のこの日は日中から薄暗く、ヘッドライトの常時点灯が必要だ。
林の中からシカが顔を出して道路を横断しようと進んできた。2頭、3頭……計4頭も続く。
シカを振り切って少し進むと、前方に今度は……2羽のカモ。
「空港から車を走らせていると、時折、シカやタヌキ、キツネに出くわします。まだ『慣れた』っていうことはないですね」
そう香山さんが言っていたのを、取材班も実体験として味わう。
新千歳空港から車で、約60km。1時間ちょっとの林道を抜けると、眼前に平地が現れ、視界が開けた。
北に夕張山地、東に日高山脈を望むこの、むかわ町穂別は、鵡川沿いに集落が形成され、炭鉱の最盛期には人口約1万人とにぎわったという。
しかし高度成長期に炭鉱は衰退し、町から若い人材が札幌や本州に流出していった。
65歳以上人口の割合を示す高齢化率の最新データでは、国全体でも約29%あるが、穂別は約44%と格段に高いのである。
《ようこそ、むかわ町穂別へ》と、’03年に化石が発掘されたむかわ竜の看板が出迎え、区画は整備されて道路も舗装されている。
だが人通りは、ほぼない。
「穂別の人口は最盛期の約4分の1まで減ってしまっています。コンビニも、『セイコーマート』が1軒あるだけなんです」
町唯一の医療機関、穂別診療所の西幸宏事務長(53)が話す。
「昨年4月以後、職員の医師は所長一人、“ワンオペ状態”でした。
もし、所長に体調不良やコロナ感染などがあれば、職員の医師がゼロになってしまいますので、副所長募集は急務だったんです」
そこで求人登録すると、東京の女性医師から手が挙がった。
「それが中塚尚子さんという医師でした。論文などを検索してみるとビックリで……。どう調べても、あの『香山リカ先生』なんです」
■月~金は診療所の副所長、週末は東京へと慌ただしくも充実した日々
一方、香山さんが応募の段階で心配していたのは、東京で続けなければいけない業務を、どこまで認めてもらえるかだった。
「立教大学は定年まであと3年で途中退職し、非常勤講師になったので、残るゼミ生などへの指導はオンラインでも対応できます。
でも精神科の診察は、長い患者さんなどを放ってやめるわけにはいきませんでしたから」
同診療所の夏目寿彦所長(58)は、採用時のことをこう振り返る。
「僕はむしろ、それまでの東京での業務を『継続してほしい』と思っていました。僕も週末には札幌(自宅)で休養しますし(両医師不在の土日は出張医が対応)、リフレッシュのために、東京の空気も吸ってほしかったんです」
4月から始まった「副所長」の勤務は、月~金が診療所での診察。
香山さんが説明する。
「9時から所長と私で外来を診察し、午後は一人が外来対応、一人が介護施設や学校などの健診にまわります。狭い町の特徴を逆に生かし、地域包括ケアの一環としての医療を目指しているんです」
週2度、朝7時半から地域医療の医師約300人のオンライン会議に出席。当直は週2回、金曜の夕刻には業務終了とともに、東京へ。
東京では精神科の診察に雑務もこなして日曜夕刻に北海道に戻るという慌ただしいサイクルだ。
■中村哲氏の死に衝撃を受けて。「僻地医療こそ私が手伝える場所」と肝に銘じて
数年前、香山さんには大きな転機があった。
「’19年7月、母が87歳で亡くなりました。晩年には『あなたのやりたいことをやるのがいちばんよ。楽しみなさい』と言っていたのが印象的でした……」
その年末には、アフガニスタンで30年以上、医療、治水などの総合的な支援に尽力した中村哲さん(享年73)が凶弾に倒れるという悲報に衝撃を受けた。
「医師の偉大な先輩として尊敬していました。こんな方が非業の死を遂げ、私のような人間が、のうのうと生きていていいのかと」
「ある講演会で中村さんは、国際貢献したいという学生に『いまいるところにあなたを必要としている人はいます』と『一隅を照らす』という言葉で答えられました。
私は『深刻な医師不足に困っている僻地医療こそ、私が手伝える場所だ』と肝に銘じたんです」
《本日の担当医=中塚医師》
入口にこう掲げられた診察室で、香山さんがカルテに入力しながら、女性患者の言葉に耳を傾けていた。
「先日の人間ドックで、胃にすこし炎症があると言われまして」
「う~ん、〇〇(薬名)の量が多いのかもしれないですね……めまいや立ちくらみはしないですか? 息切れもないですよね?」
患者のほうをのぞき込み、細かく、ていねいに状況を聞き出す。
「ひとつの考えとして一度、薬をやめてみましょうか。すこし様子をみてみましょうね……」
■長いカウンセリングのキャリアが、僻地のお年寄りに寄り添う、ケアに役立って
夏目所長は穂別での香山さんの診療ぶりをこう評する。
「高齢者が多い穂別では『寄り添う治療』が大事です。中塚先生は精神科医の経験を生かし、患者さんが何に苦痛を感じて困っているのかを自然に聞き出している」
香山さんの長いカウンセリングのキャリアは、僻地でのお年寄りのケアに役立っているのだ。
そして彼女自身、穂別での人とのつながりを、楽しんでいる様子でもある。
「東京との往復生活と聞いただけで、高齢の患者さんは『大変なところ、ありがとうございます』と言ってくれます。私は総合診療のキャリアはまだまだで、薬によっては調べ調べ、処方箋を書くんですが、なんにも文句を言わず、おだやかに待ってくださるんです。
『地域医療に貢献するために』と穂別に来たのに、スタッフや住民の方に助けられてばかりです」
目尻に皺を寄せ、はにかむように香山さんは言った。
「いないよりはまし。そんな感覚もいいかな」。
60代を迎えての挑戦は周りの人に支えられて
「穂別には農家の方が多いので、野菜を持ってきてくれたり、塩蔵して冬越しする知恵を教えてくれたりもします。
ここでは通販に頼ったりせず、住民の方がお互いにやりくりしたり、そんななかに私も入らせてもらっている気になってきますね」
■町のシンボルとなったむかわ竜の全身復刻骨格が展示されている穂別博物館でほっと一息
そんな香山さんがホッとできる空間が、穂別にはもうひとつある。
いまや町のシンボルとなった、全長8mのむかわ竜(カムイサウルス・ジャポニクス)の全身復元骨格が展示されている穂別博物館である。
「私はもともと、10代のころから考古学や生物学が大好きでした。
’18年の胆振東部地震の被害で遅れている博物館の改修にも、ぜひ協力したいんですーー」
50代の最後に母をみとり、「人生で一回くらいは、人の役に立ちたい」と一念発起しての“北帰行”のはずだった。
それが「まだまだできないこと、知らないことがある」と気づかされ、診療所のスタッフや、町の人々に「理解され、助けられている」ことを思い知ったのだ。
「まだ私自身は、穂別でぜんぜん役に立っている気はしないけれど、『いないよりはまし』。そんな感覚もいいかなと」
午前診療を終えた香山さんは、白衣からスカイブルーのカーディガンに着替え、職員食堂へ。
この昼の献立は、サバの塩焼きに、切干大根の炒め煮など。
「昼食では、入院患者さんと同じメニューを毎日いただいています」
こんなふうに週の大半を穂別で、本名「中塚尚子」で過ごし、週末は東京で精神科医としての診療や、「香山リカ」の業務をこなす。
「いつ急患が入るかわからない」穂別では、お酒は飲めないという。
だから、搭乗前の新千歳空港のラウンジでは、サッポロビールで、自分にささやかな「カンパイ!」。
60歳を迎えての決意。
香山さんの挑戦は周りの人々に支えられ、せわしなくも、ゆるりと進んでいる。
(取材・文:鈴木利宗)