東京は上野公園にもほど近い繁華街の地下にある「シアター上野」は、この界隈で唯一のストリップ劇場だ。薄暗かった場内に、大音量でマドンナの曲が流れ始めると同時にピンクや紫の照明が灯り、ミラーボールが回転を始めた。

その瞬間からお客たちの視線は、ステージ上で、シルバーに輝く衣装に身を包んだ金髪の踊り子・新井見枝香さん(42)にくぎ付けとなる。

リズムに乗ってステップを踏みながら、スカートの裾をヒラヒラさせたり、体を大きくのけ反らせ、一枚一枚衣装を脱ぎ捨ててゆく。しなやかな肢体の艶めかしさとは裏腹に、ときどき見せるキュートな笑顔に会いたくて通い続けるファンも多い。

軽快だった曲調から一転、5曲目のバラードとともに、花道から客席に突き出したストリップ特有の丸い「盆」に歩み出たころには、体を包むのはごくわずかな衣装だけ。スポットライトの下で、その全身が神々しく輝く。15分ほどのステージを終え、彼女が小さく「ありがとうございました」と呟いたとき、客席には涙する若い女性客の姿もあった。

新井さんは、ストリッパーに加えて、書店員、エッセイストの顔を持つ異才。出版界では、自身が選出する「新井賞」の創設者でもあるカリスマ書店員だ。突然のストリップデビューで周囲を驚かせたのは、20年冬だった。

「今年2月には働いていたHMV&BOOKS日比谷コテージ店が閉店したこともあり、誤解されることも多いんですが、書店員は辞めていません。まだ渋谷店のほうで勤務していて、三足のわらじ生活は続いているんです」

今なお書評やイベント出演などの依頼も多く、多忙なスケジュールは10日間刻みという。

「ストリップの興行がだいたい1公演10日間で、月のアタマ、ナカ、ケツで分かれているので、その舞台のないときに書店員として働いています。

ですから、1カ月まるごとストリップが入れば、書店での仕事はできない月も。そこは、みんなが協力してくれて、『行っておいで』で、地方へも送り出してくれます。ありがたいですね」

思えば、街の書店もストリップも、世の中からどんどん姿が消えて、希少な存在に。

「書店員として働き始めた14年前には、自分がまさか踊り子になるなんて思ってもいませんでした。芸の世界なので、昔ながらの先輩後輩の厳しいしきたりもありますが、私は、いいおねえさんたちにも囲まれて。今日のこの衣装も実はお下がりなんですよ」

■成績は常にトップクラスだった学生時代。

大学中退後、ひょんなことから三省堂書店へ

80年7月24日、東京都台東区根岸の生まれ。卸業を営む父親と専業主婦の母親、4つ年上の兄がいる。

「友達の家がラブホテルをやってたり、近くには吉原があったりでしたが、あの下町の雰囲気は今も大好き。子供のころは、お小遣いも十分にもらっていたし、両親はふだんから私の意思を尊重してくれました。ですが、私自身、すごく考えるタイプだったので、難しい子、育てにくい子だったんじゃないかと思います。本は好きでしたね。

親から『読め』じゃなく、自分で近所の個人の本屋さんへ、もう呼吸するように普通に立ち寄って、読みたい本があれば買っていました。お風呂掃除のお手伝いで、母からもらえる図書券がうれしかった。

『不思議の国のアリス』は、どんだけ読んでもいまだに意味がわからないですが、あの暗さとか不可解さに惹かれます」

地元の公立小学校を出て、中学からは東邦音楽大学の付属校へ。

「成績は、小学校からめちゃめちゃよかったです(笑)。あと、東京のコというか、みんなマセてて、小5のころなんて、ソニプラ大好きで、今よりよっぽど化粧濃かったですね(笑)。一方、あの地元で、うちの小学校だけ先進的というか、中学から私立に上がる子が多かったんです。

私は小学校からブラスバンドで基本的に楽器はなんでもできたので、中学はピアノで入りました」

相変わらず、はた目には優等生に見られていたかもしれない。

「成績は学年で2番くらい。教科書の下に隠して谷崎潤一郎やボーイズラブを読んでいたのは、授業がつまらなかったから(笑)」

14歳のころ、そんな彼女を夢中にさせるものと出合う。

「GLAYをテレビで見て、ハマりました。すぐにライブに通う楽しみも覚えて。ナマのステージは、ときにボーカルやバンドの音が外れたりもします。

それまで親しんでいたクラシックではありえないんですが、あの粗削りな感じに、もうグッときてしまって」

高校では、理不尽な校則について黙ってはいられなかった。

「『茶髪はダメ』で水色にするんですが、今度は『色はダメ』で、脱色したり(笑)。スカートの丈の長さも、なぜダメなのかという説明に納得がいかないと、先生にも理詰めで反論する、イヤな生徒だったと思います。単純な好奇心から吉原の最高級ソープの面接に行ったのもこのころ。鼻で笑われて帰されましたが」

そのまま東邦音大に進み、ホルンを専攻するが、やがて自ら組んだロックバンド活動に夢中になり、大学を中退する。

「バンドのせいというより、大学が私の思っていた姿とは違ってたんです。音楽を追求するというよりは、まずは教職を取ろうという周囲の雰囲気を受け入れられなかった。子供を育てる大切な仕事のはずなのに、『とりあえず教職』はありえないと思いました。両親も、私の性格をわかってますから、『そうだよな』という感じで、反対はありませんでした」

大学中退後、池袋のアイスクリーム店でアルバイトを始めた。

「ここでオープニングスタッフから3年ほど働き、その後、パン屋もおもしろそうだと思って面接を受けて、その帰りに偶然、『書店員募集』のポスターを目にするんです。結局、書店のほうが、その場で即決で採用となるんです。パン屋も受かっていましたが、そのまま書店で働き始めました。すると思いがけず、これまでの人生でいちばん楽しいと感じるほどの世界が待ってたんです」

こうして28歳で三省堂書店有楽町店に入店。社会人として一足目のわらじを履いて、今日まで続く長い書店員生活が始まった。

■初めてストリップを見て一瞬で「ポカーン」

「もともと本好きでしたが、本って一人で読むもので、そこで完結してるじゃないですか。それが書店で働き始めたら、地下に休憩室があって、私しか知らないだろうと思っていた作家の話で、みんなで盛り上がってたりして、そうか、こんな人たちが、あの本屋の刺激的な棚を作っていたのかと。バイトも早番・遅番とフルフルで入って、遅番では夜10時過ぎに勤務を終えても話が尽きなくて、飲みに行ってまた本談議。振り返れば、あの一時期、奇跡的に本のスペシャリストが集まっていたのかも」

さらに終業後、売場を歩いて自分の財布で読みたい本を買うことがルーティンとなっていく。

「手に取る本は、光って見えるんです。今の自分の状態とか関心や、前に読んだ本とどこかでつながっていたり。ただ書店員としては、単に本好きの自分を押し通すのではなく、いかに会社に利益をもたらすかということを考え、実践するのが私は好きでした。いわばゲーム感覚で、売ることを楽しんでいた。店頭のポップなんかも、自分の思いを吐き出すより、あえてキャッチーな言葉を使って、お客さんの気を引くことを考えました」

14年の新井賞の創設も、その思考の上にある。

「もともとは、直木賞で私がいちばんおもしろいと思っていた候補作が落ちたのがきっかけ。当時、カリスマ書店員という言葉も流行って取材も多かったから、ここで私が賞を作れば、もっと売ることができるのではと。当時、契約社員でしたが、会社も信頼して自由にやらせてもらえました」

芥川賞・直木賞と同じタイミングで年2回発表される新井賞は信頼度も高く、やがて「本家の賞よりも売れる」と業界で噂されるほどに。ちなみに第1回の受賞作は千早茜さんの『男ともだち』で、その後も、辻村深月さんや三浦しをんさんらが受賞している。

17年には、初めての著書『探してるものはそう遠くはないのかもしれない』(秀和システム)を出版し、エッセイストの肩書も加わり、二足のわらじ生活へ。

こうして多忙ながら充実した生活を送っていた18年6月、知人の直木賞作家で新井賞受賞者でもある桜木紫乃さんからメールが届く。

〈見枝香よ、書を捨てて小屋へ行こう。おやつは鰻だ〉

ストリップ観劇への誘いだった。

これがきっかけで新井さんは「三足のわらじ」生活を送ることになる。もともと「人付き合いが苦手」と話す新井さんだが、40代間近になって、活動の場を広げた背景には何があったのだろうか。

「ストリップは、やってみて、好きだから、としか言いようがないです(笑)。噓がない世界。会社員の看板も書店員としてのキャラも、今までのものをぜんぶ脱ぎ捨てて裸になって、自分に何が残るだろうって思いました」

自分の思いにどこまでも素直に、気負いなくーー。そんな生き方に惹かれる女性たちは多く、ストリップ劇場でもトークイベントでも、新井さん目当ての追っかけ、ファンの姿と出会うのだった。

【後編】女の体は祝福されていると思った ストリッパーデビューの書店員語る舞台の魅力へ続く