《1月29日5時47分、鮎川誠が永眠いたしました。膵臓がんでした。

これまで鮎川誠とシーナ&ロケッツを長年に渡って応援し、愛してくださり、本当に有難うございました》

日本を代表するロックバンド「シーナ&ロケッツ」の鮎川誠さんが亡くなった。74歳だった。所属事務所によると、鮎川さんは’22年5月に膵臓がんが発覚。余命5ヵ月と宣告を受けていたものの、病気を公表せずに全国ツアーを行い、亡くなる直前まで音楽制作に没頭していたという。

福岡県久留米市出身の鮎川さんは、’75年にロックバンド「サンハウス」のギタリストとしてメジャーデビュー。妻のシーナさん(享年61)と“シナロケ”を結成したのは、’78年のことだ。

「もともと鮎川さんはメジャー志向がなく、サンハウスでのデビュー後も福岡で暮らしていました。交際していたシーナさんの妊娠がきっかけで結婚したところ、シーナさんのお父さんが『福岡にいて娘を幸せにできるのか。東京で一度勝負してみなさい』といい、シーナさんも『歌が必要なら私が歌うよ』といったため、2人の言葉に後押しされてシナロケの結成と上京を決意。そして、’79年の『ユー・メイ・ドリーム』でブレイクしました。

シナロケを通して、鮎川さんは海外のアーティストやYMOなどと交流し、そして亡くなるまで若いミュージシャンとの親交も深めていました。鮎川さんは『みんなに出会えたのは全部シーナのおかげ』と話していましたね」(音楽関係者)

年齢を重ねてもロックを鳴らし続けたシナロケだったが、突然の不幸が襲う。

’15年2月、シーナさんが子宮頸がんによって、61歳の若さで亡くなったのだ。告別式の二日後、鮎川さんは本誌の取材に応じ、シーナさんの闘病生活について語ってくれていた。

■「シーナは静かに逝ってしまった」

鮎川さんによると’14年7月、シーナさんは突然「体がフラフラする」といい、医師に診てもらったところ「子宮頸がんのステージIIIbの状態」と宣告されることに。しかし、シーナさんは抗がん剤や放射線治療を拒否し、アルバムのリリースとツアーをこなし、さらに9月には21年ぶりに日比谷野音でのワンマンコンサートを開催。

その後、シーナさんは10月後半から足の痺れに悩まされ、11月から車椅子生活に。12月に放射線治療を始め、重い副作用に耐える日々が続いたものの、次第に衰弱していったという。鮎川さんはシーナさんの最期について、こう明かしていた。

「(ビートのきいた音楽が流れる病室で)俺は腕をシーナの首の下に回して抱きしめていた。ずっと離さんかった。『ユー・メイ・ドリーム』のイントロが始まったとき、シーナは静かに逝ってしまった……」

シーナさん亡き後も、鮎川さんはシーナさんを想うことをやめなかった。毎年4月7日に追悼ライブを行い、’22年11月にはシーナさんの誕生日とシナロケの45周年を記念したライブも開催している。

「鮎川さんは生前のシーナさんを回想し、『いつもシーナは俺を応援してくれた。

だから、俺はギターをシーナのために弾いていた』と話していました。シーナさんは鮎川さんより5つ年下ですが、鮎川さんにとってお母さんのような存在で、ずっと褒められたかったといいます。

シーナさんが亡くなった後、鮎川さんはギターを弾く理由を失ったといいます。しかし、ここで辞めてしまうと、シーナさんと作った音楽も世界から消えてしまうのでは。そう考えた鮎川さんは、決意を新たにシナロケを続けることにしたそうです。コロナ禍でも『ロックは心のワクチン』といい、音楽に対する情熱を燃やし続けていました」(前出・音楽関係者)

ずっとシーナさんを思い続けた鮎川さん。天国でも、2人の音楽は鳴り止まない。

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