
1985年8月12日の18時過ぎに羽田空港を離陸し、伊丹空港に向かう上空で操縦不能になり同日19時頃に群馬県上野村の御巣鷹山の尾根に墜落した日航機墜落事故から40年。通信環境の乏しい当時、墜落現場の特定に困難を極め、陸上自衛隊の第1空挺団73名が現場に着いたのは翌朝9時ごろのことだった。
「一切の取材を断ってきた」…生存者を救出した自衛隊員
日航機墜落事故当時、週刊誌には今では考えられない写真が掲載されていた。1985年8月30日号のある写真週刊誌には丸こげのご遺体や木から垂れ下がる腕、土中から飛び出す足などの報道写真が数多く載っている。
同号には12歳の少女を墜落機体から救出したばかりの元陸上自衛隊・第1空挺団の相田さん(64歳、仮名・当時は24歳)も呆然とした姿で写っている。
相田さんは事故以降、ストレス障害と闘いながら生きてきた。これまで「一切の取材を断ってきた」が、40年という節目に「ようやく語る気になった」として記者の取材に応じてくれた。
陸上自衛隊の第1空挺団といえば日本唯一の落下傘部隊である。国家の最も困難かつ重大な震災や侵略時に迅速に空中機動し落下傘で降着し、任務を果たす精強な部隊だ。
少女を抱えながらヘリに吊り上げられた作間二曹は部下らの間で「悪魔二曹」と呼ばれ、恐れられながらも敬われていた。
相田さんは作間二曹のもとで「まずは自分を守れ」「つまらない怪我はするな」「基本をしっかりやれ」と教わり、時には銃剣道という模擬銃で胸部や喉を突き勝敗を競う現代武道でしごかれた。
「悪魔と言っても誰も作間二曹を嫌う人はいませんでした。『悪魔と同じ塹壕なら生き残れる』と信頼は厚く、気前よく面倒見のいい大先輩でした。
40年前の8月12日、19時近くの臨時ニュースで日航機が行方不明との第一報を知り『墜落なら海か』くらいの認識でした。自分は2日後に休暇を控えていたこともあり、出動はないだろうと思っていたのです」
だが、時間を追うごとにテレビの速報では墜落現場は山梨、長野、群馬などの山間部との情報が入り、千葉県船橋市にある陸上自衛隊習志野駐屯地の空気は張りつめていく。
だが22時の消灯時点では派遣要請などの命令はなかった。しかし気になった相田さんは深夜に当直室に行く。
「おそらく防衛庁長官からの命(めい)が下るはず。ヘリからリペリング(ロープでヘリから直接下降すること)し、災害派遣することになると聞きました。
早朝4時過ぎに命令受領ラッパが鳴り、背のう(リュック)に水筒や乾パンを詰め込み『V-107』に乗りました。自分は二番機で作間二曹と同じヘリでした」
「手を引っ張ると肘から先だけでした…」
相田さんが墜落現場に降り立ったのは13日10時前。リペリングしながら眼下を見渡すと、辺り一面に飛び散る人間の首、手足、肉塊が見え、誰も口にはしないものの「生存者なんているわけがない」と思ったという。
「恥ずかしながら、降り立ってすぐランチしてしまいました(ランチ=自衛隊用語で吐く)。自分は屈強だという自信がもろくも崩れ去った瞬間でした。
しかし我々の使命は生存者を見つけること。小隊長からは『意識のない人間に声をかけてもダメだから手を握れ』と言われていたので、なんとか生存者を見つけたい思いで凄惨な光景の中、残骸から伸びた手をつかんだんです。
子どもを持つ隊員が、まるで生きているかのように綺麗な姿の男児のご遺体を抱きかかえ、「怖かったね、もう大丈夫だよ」と涙ぐみながら声をかける姿もあった。
「椅子に座ったまま、丸こげとなったご遺体もありました。ハニワのように口を開けたご遺体も。木の枝には人間の臓器のようなものが垂れ下がっていたり。地獄絵図そのものでした。
そんななかです。山の下のほうにいた上野村の消防団が『自衛隊さん、声がします』と叫んだので駆け降りました。機体の下から確かに声が聞こえる。数人で機体の外壁を持ち上げようにも無理で、崩れかけた機体内部にほふく前進しながら入るしかないと…」
「誰が入るんだ」
そんな無言の緊張が走る中、上官と目が合った相田さん。上官が「相田、志願ご苦労!」と叫んだことにより、相田さんが中に入ることに。
「機体の内部を照らすと座席が上側にあり、首のないご遺体の胴体だけが垂れ下がっているような状態でした。(生存していた)12歳の少女は短髪であったため、男の子のように見えました。
名前を聞いてもよく聞き取れず、その子が『お父さんと妹はどうなったの』と聞いてきたので、私はとにかくその子を安心させたくて『先に隊員が助けているから大丈夫だよ、一緒に帰ろう』と言いました。
その子は腹部にかかったシートベルトで上から宙吊りになっているような状態でしたので、持参したコンバットナイフでベルトを切り、女の子を抱きかかえるようにして(機体の外にいる別の隊員に)腰に巻いたロープを引いてもらい出してもらいました」
飛行機の扉を担架がわりにして生存者の少女を運び、ヘリで一刻も早く病院に連れていこうとするも、報道のヘリが好き放題飛んでおり、自衛隊機は近づけない状態にあった。
「あの報道のヘリは邪魔以外に他なりませんでした。別の女性生存者を救出した後、毛布に包んでいたのに、その毛布をひっぺがして写真を撮ったカメラマンもいましたし。
私が機体から救出した少女は、その後、作間二曹によりヘリで吊り上げられていきました。生存者4人の救出が終わったのが13時頃だったと思います」
「怖くて行けませんでした」50代から慰霊登山ができるようになった理由
その後、相田さんはヘリポートの構築や現場での仮眠後にご遺体の収容や搬送作業を行い、15日朝に習志野へ帰投したという。
「俺らがやらなければいけない」その一心で、生存者の救出や諸々の作業にあたったが、この日から30年以上もの間、相田さんはあらゆるストレス障害に悩まされることになる。
「まず夜まともに眠れなくなりました。真っ黒こげのスーツ姿の男性に首を絞められたり足を引っ張られて金縛りにあったり、赤ちゃんを抱いた女性が立っているのが見えたりと、事故直後は毎晩のようにそんな状態でした。『V-107』のヘリの音を聞くと動悸がしたりもしました。
“夜のお客さん”は年を追うごとに数は減ったものの、週に1回なのか月に1回なのか、50代頃まで来ていましたね」
事故以降、精神的に追い込まれた相田さんは、任務に支障をきたしてしまう。
「それは自分の不注意による怪我でしたが、これ以上の事故を起こし仲間に迷惑をかけてはならないと思いました。そして空挺を去る決意をして依願退職したのです」
相田さんが退職したのは20代後半のことである。『自分はぶっ壊れてしまった』と思い込み自暴自棄になり海外の紛争地に行きゲリラ兵として活動していたという。
「不思議と紛争地にいた2年ほどの間はストレス障害に悩まされることはなかったのですが、30代で日本に戻ってから50代まではずっとおかしな状態は続いていました。
それに、こんな自分を見捨てず声をかけ続けてくれた傘友(元空挺団の隊員)のお陰で50代からようやく慰霊登山ができるようになりました。空挺団のイベントにも顔を出せるようになったし。
なにより慰霊登山はそれまで怖くて行けませんでしたから。そして2016年には作間二曹が亡くなって……“夜のお客さん”が完全に来なくなったのは、それくらいからだったのかな……」
相田さんの御巣鷹山の慰霊登山は今年で11年目ほどになる。あの日あの時、現場で一緒に救助にあたった仲間達と前日から山に向かい、ちょうど自分達が山に降り立った朝10時頃には現場に着くようにしているという。
「人生の半分をストレス障害に悩まされずいぶん苦しみましたが、仲間や妻のおかげでようやく乗り越えられたような気がしています。いまは公共交通機関の運転手として現役で働けていること、好きな車いじりができていることがなによりです」
相田さんは「あの事故により人生が変わってしまった」などという恨み節のようなものは一言もこぼさなかった。
※取材後日談※
相田さんを取材したのは6月20日のことだった。原稿確認のためにご連絡をした際、こんな話をしてくれた。
「7月末くらいに数年ぶりに“夜のお客さん”が来ました。いつもの黒いスーツ姿の男性です。でもいつもと違ったのは、顔がなんとなく見えたこと。これまでは真っ暗の中、顔かたちは一切わからなかったのです。
『こちらに向かって来た!』と思ったら回れ右して、振り返ったその顔は普通の男性の顔に見えました。その後、見えた光景はたくさんの仕事帰りなのか親子なのか、皆さんが普通の姿で出口に向かって歩く姿です。
勝手な想像ですが、さまよっていた方達が大坂の空港を出て行ったのか…と感じました。翌朝、頭の中がいつになく軽くなった気がしました」
取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班