住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、青春時代、憧れていたアスリートの話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。

「今でもスカッとしたいときには、アルベールビル五輪での伊藤みどりさんの演技を見るんです。フィギュアスケートが好きで、浅田真央ちゃんのファンでもありますが、伊藤さんのトリプルアクセルの高さは別格で、見返すたびに記憶の中のジャンプより高く跳んでいるので驚きます」

そう語るのは、イラストレーターの五月女ケイ子さん(48)。

伊藤の演技に魅せられた’90年代は、故郷の山口県から横浜市に引っ越した時期だった。

「山口の実家は田舎の中の田舎のような場所。田んぼに囲まれていて、市街地では受信できる民放の電波も実家には届かず、見られるテレビ番組はNHKと限られた民放のものだけでした。『笑っていいとも!』(’82~’14年・フジテレビ系)は夕方からの放送だったし、見ることができない月9のトレンディドラマは、新聞のラテ欄に書かれているあらすじを見ながら内容を想像していました。だから、東京に近い横浜に引っ越すことが決まったときは“都会暮らしができる!”という期待感でいっぱいに。私にとってはメモリアルな出来事でした」

横浜での新生活をスタートさせ、無事に高校受験を終えた後、原宿の竹下通りに遊びに行ったという。

「テレビで見ていた憧れの街。路面にものすごい数のジーパンを陳列している店があって、“せっかく来たのだから”と思って、2000円ほどの安いジーパンを買いました。原宿に行くこと自体が特別なことだったから、それだけでうれしくて」

進学した高校は、厳しい校則も制服もない自由な校風だった。

「中学までは靴ひもを通す穴が4つ以上ないとダメだったり、スカートの長さにもうるさかったりしたのですが、高校では縛られるものがなくてのびのび」

故郷では見ることができなかったトレンディドラマも楽しめた。

「『東京ラブストーリー』(’91年・フジテレビ系)などの月9ドラマを見ては“大人になったら、こんな恋愛ができるんだ” “都会では部屋の中に自転車が置いてあるんだ”と想像を膨らませていました」

高校3年生で受験勉強をしながら、よく聴いていたのは槇原敬之の曲だった。

「『どんなときも。』(’91年)がはやっていたのですが、都会にも慣れて“みんなにはやっているものに飛びつきたくない”と、ちょっとトンガリ始めていたころ。でも、友達からファーストアルバムはすごくいいよと聞いて、『君が笑うとき君の胸が痛まないように』(’90年)のテープをダビングしてもらいました。1曲目の『ANSWER』は失恋の歌。自由な学校生活を思いっきり謳歌した後、久しぶりに一人になったときに自分を見つめ直したくなる曲でした。受験の孤独に浸り、かつ、楽しめたのは槇原さんの音楽のおかげです」

■想像の上を行く伊藤みどりのジャンプ

大学受験で芸術学科を選んだのは、もともと表現することが好きだったから。高校時代はダンス部に所属していたほど。

表現を楽しむうえで夢中になったのがフィギュアスケートだった。

「ロス五輪のころから家族でスポーツ番組を見る機会が増え、フィギュアスケートのNHK杯も欠かさず見るように。伊藤みどりさんが10代のときからファンでした」

その魅力はやはりジャンプ。

「当時、伊藤さんのライバルだった旧東ドイツのカタリナ・ビットは、ジャンプはそれほどでもないけれど、スタイルがよく芸術面がすぐれていて、大会でも優勝していました。

反対に、伊藤さんは芸術点が低く、技術点で勝負するスタイル。でも、当時の採点方法では、芸術点がすぐれているほうが上位にいく感じだったんです」

そのため、カタリナは伊藤のようなジャンプで勝負する選手に対し「ゴムまりのようにぴょんぴょん跳ねている」といった辛辣な発言をしていた。

「たしかにカタリナの演技は美しいのですが、伊藤さんのジャンプの美しさは負けていませんでした」

カタリナの引退後、そのジャンプを武器に’89年の世界選手権でアジア人初のチャンピオンとなった伊藤。だが、期待されていた’92年のアルベールビル五輪では練習で失敗が続き、予定していたトリプルアクセルよりも難易度が低いトリプルルッツにプログラムを切り替えた。

「ところがそれも失敗してしまい転倒。フリープログラムでも前半、トリプルアクセルに失敗してしまって……。それでも演技の後半、伊藤さんは果敢に再チャレンジ! 銀メダルを引き寄せる躍動的なジャンプは忘れられません。現在のフィギュアスケートはダンスや音楽、衣装などを含めた総合芸術でありながら、ジャンプなどの技術を競うスポーツでもあります。そのスポーツの要素を大きく取り入れる流れを作った演技だったと思います」

伊藤の演技によって“表現”することへの思いを触発された五月女さんは、イラストレーターの道を歩み始めた。

「大学時代は就職氷河期で、私が企業の面接を受けてもうまくいくとは思えませんでした。それで就活の代わりにイラストを描きため、出版社へ持ち込んだんです」

イラストレーターとして活躍する今でも、トリプルアクセルという技を極めた伊藤の存在が、大きく影響しているという。

「イラスト道も、勝手にスポーツに通じると思っているんです。

フィジカル、メンタルがともに充実して、初めて人を笑わせる作品が描けます。だから、“まっさらな紙を前にするときはお菓子を食べて糖分を補給する” “描く前にバイク便を手配して、ウチに来るまでの30分間で集中して仕上げる”など、若いころからアスリート的な心持ちで仕事に向き合ってきました」

独自の“五月女ワールド”はスポーツ選手のようなゾーンに入ることで生み出されているのだ。

【PROFILE】

五月女ケイ子

’74年、山口県生まれ。大学卒業後、独学でイラストレーターに。’02年、挿絵を担当した『新しい単位』(扶桑社)30万部を超えるベストセラーとなった。放送作家・演出家で夫でもある細川徹さんとの共著『桃太郎、エステへ行く』(東京ニュース通信社)が好評発売中!

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