「中森明菜さんとは、『ザ・ベストテン』『トップテン』などの歌番組で、何度かご一緒させていただきました。こういう生放送では、スタジオも楽屋裏もピリピリと緊張感が漂っていました。
歌う直前に行われる黒柳徹子さんとのトークでは、少し震えているというか、緊張されているのが、後ろのソファにいる私にも感じ取れました。あの中森明菜さんでも緊張するのかと驚き、また後輩の私は少し安心する気持ちにもなったものです。
ところが曲が始まった瞬間、明菜さんの表情ははっとするほど変わり、キレのある動き、伸びやかな歌声で周囲を圧倒するので、私は愕然とさせられました。あの頃、生で明菜さんを拝見できた経験は、とても大きかったと思います」
そう振り返るのは1986年にアイドル歌手としてデビューした島田奈央子(当時の芸名は島田奈美・53)。雑誌『Momoco』に登場していた同期の西村知美(53)と杉浦幸(55)と共に「桃組3人娘」と呼ばれていた。島田はデビューから4カ月後、小泉今日子(58)のトーク番組で中森と共演したという。
「小泉今日子さんと明菜さんと私の3人という、今思うと奇跡のような時間でした。お2人の目の前で歌う私は、緊張で顔がこわばっていたと思います(笑)。
新人だった私に明菜さんは『この状況で歌うって、やりにくいよねぇ(笑)』『全国のレコード店を回ったりして、プロモーション活動は大変でしょう。私も店頭のミカン箱の上に乗って、歌ったんだよ』『学校に通いながらお仕事するのは、本当に大変よね。頑張ってね』と、自分の体験を交えながら、優しく励まして下さいました。
意外にも同世代との共演は多くなく、「友達と楽屋が一緒になる日は、嬉しくてたまらなかった」と話す島田は、アイドル仲間との思い出をこう振り返る。
「西村知美さんとはデビュー前から友達で、今でも仲良くしてもらえる、本当に貴重な存在です。あと同期の杉浦幸さんとはお休みが一緒の時は家に遊びに行ったり、真璃子さん(55)とは、アミューズメントパークやコンサートに出掛けたりしていました。
携帯がなかった当時の連絡方法は、家の電話か手紙でした。渡辺美奈代さんとも仲良くて、手紙交換をしていました。なんと、家に手紙が届くのですよ。何気ない日常のこと、仕事の話などを書いていました。今も大事に持っています」
■“女子ジャズ”ブームの火付け役に
多忙を極めたアイドル時代だったが、デビューから4年後の90年に島田は突如引退する。「イカ天」こと『三宅裕司のいかすバンド天国』が89年に始まり、”時代の変化”を感じとってのことだったという。
「私はやっぱり音楽が好きでしたので、作詞やレコーディング、コンサートを中心に活動していましたが、次第にこのままのスタイルで続けられるか不安になりました。当時、まだ19歳だったので、自分の心境も複雑に揺れていたと思います。ならば、一旦ここでアイドル歌手という活動を終えて、自分のやりたいような音楽の道に突き進もうと思いました」
引退後、音楽雑誌の編集者から「CDのレビュー記事を書いてみないか」との誘いを受けて原稿を書くようになり、行き着いたのがジャズ系の音楽ライター。
「子供の頃から作文を書くのが好きでした。締め切りがあるのは好きではありませんが(笑)、文章を書いていると、なんとなく楽しくなってきて、心が落ち着きます」
現在は、音楽雑誌などでの執筆に加え、ジャズのWEBラジオ番組のパーソナリティも務める。イベントなどでDJとして活動するほか、音楽プロデューサーとして自らイベントも開催。2022年には自身でプロデュースしたアルバム『Something Jazzy~メロディ・イン・ザ・リビングルーム』をリリースしている。
今年2月からは、月額制オンラインサロン『島田奈央子オフィシャル・コミュニティ~今のワタシ・昔のワタシ~』も開設。SNSとは異なる、深みのあるコミュニケーションを取れる場を提供している。
「このコミュニティでは、10代の頃の“島田奈美”が経験した出来事、その後の“島田奈央子”が学んだモノ、コトを、他では見られない写真や動画、これまで語らなかったエピソードなどをエッセイで書いています。これからも芸能界での経験と、現在のライターやプロデューサーとしての活動が繋がるような、独自の活動をしていきたいと思っています」
最後に、中森へのメッセージを問うと――。
「10代の頃から憧れている明菜さんが活動されるお話は、いつでも嬉しくなり、励みになります。これから、どんな音楽を私達に届けてくださるのか、楽しみにしています。心から応援しています!」
震える中森の背中を間近で見た昔と今、2人の音楽への情熱はともに色褪せないようだ。