「高校3年生のときに、40代だった母をすい臓がんで亡くしたことが、医師を志したきっかけかもしれません」

今年3月で、長年勤めた順天堂大学医学部を定年退職した小林弘幸先生(65)に、これまでの医師人生を振り返ってもらった。

「学生時代は野球・ラグビーに夢中でした。

医学部6年の卒業試験の最中にもラグビーの公式戦に出続け大けがをしたことも。入院中、毎日アイスクリームを差し入れてくれたラグビー部の監督が小児外科の宮野武教授。その人柄にひかれ、私も小児外科に入りました」

大学院では、宮野教授のすすめで“免疫”を研究。免疫学の第一人者、奥村康教授と、宮野教授らの研究グループに参加し、臓器移植の際の免疫の拒絶反応を抑える薬剤の開発にも参加した。

大きな転機が、イギリスとアイルランドでの生活だった。

「30歳のころ、アフリカのザンビアに医療支援に行くことになりました。その途中、ロンドンに寄ったのですが、そこで小児外科の世界的な権威を紹介され、その場で英国に来るように誘われました」

ロンドン大学付属英国王立小児病院での研修医生活が始まったが、現実は厳しかった。最初は、なかなか認めてもらえなかった。

「英語も下手で、指導医には『俺の出世の邪魔をするな』とまで言われました。医師に出てくる紅茶も、最初は僕にだけ出なかった」

■一目で病気を見抜き、画期的な技術も開発

平日は診察、休日返上でカルテを書いた。そんな努力もあり、周囲から見る目が少しずつ変わってきたなか、決定的な出来事があった。

「アイルランド出身の有名な教授の朝の回診で、そこには多くの医療従事者が集まっていました。

教授が一枚の子供の腸のレントゲン写真を示しました。『これは何の病気だと思う?』と」

みなが黙って顔を見合わせるなか、小林先生の声だけが響いた。

「ヒルシュスプルング病!」

生まれつき腸管の一部に神経細胞がないため、重い便秘や腸閉塞などを起こす難病だった。教授と小林先生が治療方針について話し合った。東洋から来た医師に、病院の誰もが一目置くようになった瞬間だった。

「その後、ヒルシュスプルング病の世界的権威、プレム・ピューリー教授に誘われダブリンのアイルランド国立小児病院に移りました」

ここで、ヒルシュスプルング病の画期的な治療法をピューリー教授と開発する。

「治療には、腸の神経細胞のない部分を切除し、神経細胞のある部分を手術でつなぎ直す必要があります。しかし、神経細胞の有無を見分けるには時間がかかった。そこで、神経細胞を短時間で染色する技術を開発。それまでは数時間かかっていたものが、数分程度で済むようになったのです」

この技術は、いまも多くの命を救っている。帰国後は順天堂大学に戻り、2006年には医学部教授に就任。メディアで積極的に情報を発信し始めたのもこのころだ。

「ヒルシュスプルング病の研究などを通じ、自律神経や腸内環境の大切さに気づいていましたから、多くの人に伝えたかったんです」

自律神経のバランスが崩れたときに心身にさまざまな不調が現れること。また、腸内環境が自律神経や免疫機能と密接に関係していることは、今や常識といっていいが、それを世に知らしめたのは小林先生だ。そんな先生もついに定年退職を迎えたが……。

「退職後は、医療小説を書こうなどと考えていましたが、特任教授として順天堂大学に残ることに。まだまだ、研究も情報発信も続けていくことになりそうです」

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