「おばあちゃんは当時としても小柄なほうで身長154センチぐらいじゃなかったかなあ。自宅にはしょっちゅうお客さんが来てはりましたので、家でも髪の毛はビシッて結って、黒い留め袖の和服姿。
こう述懐するのは、NHK連続テレビ小説『わろてんか』で、ヒロイン(藤岡てん)のモデルとなった、吉本せいの孫娘・吉本圭比子さん。せいは“お笑い帝国”吉本興業を一代で築き上げ「日本一の女興行師」「女太閤」と呼ばれた人物。せいの存命中を知る圭比子さんが、その素顔を語ってくれた。
せいは1889年12月5日、大阪市北区の米穀商を営む父・林豊次郎と母・ちよの三女として生まれた。勉強はよくできたが、きょうだいが12人もいたため、尋常小学校を卒業すると船場の大きな商家に奉公に出される。そこで3歳年上の男性との縁談が持ち上がる。吉兆やなだ万といった一流料亭に箸を卸す老舗の荒物問屋「箸吉」の5代目、吉本泰三だ。
ところが泰三は、商売そっちのけで落語や芝居見物に夢中になり、自らも剣舞演者として全国巡業に出てしまうようになる。巡業に出れば、1年以上家を空けることもあった、そんな素人集団の旅芸人は、地方の興行師にだまされるなどして大失敗。一方、主人が不在の『箸吉』の経営は当然傾いていき、あえなく廃業する。
せいは20歳のときに長女を、続けて次女(生後10日で逝去)を出産。
趣味を生かした商売を始めたいという泰三に対し、せいは「経験もない寄席をやるなんて、ちゃんと生活できると思っているんですか!」など激しいやりとりがあったが、最終的には、せいは父親に頭を下げて300円を借りる。残りの200円は高利貸しから借りて工面した。
当初は苦難の連続だった。第二文芸館の立地は繁華街ではあったが、客席数がわずか150~200人ほどの最低ランク。名人と呼ばれるような落語家が出演するのは道頓堀や法善寺あたりに集中する格上の劇場だけだったため、第二文芸館は、3流4流の落語家4人と“色物”といわれるものまねや剣舞、怪力、手品師ら17人での船出だった。
だが、商家生まれのせいは、女中奉公で培ったしたたかさと、女性ならではのこまやかなサービスを打ち出していった。また、暑い時期には入口に大きな氷のかたまりを置き、その上で冷やし飴の入った瓶をコロコロと転がして路上販売。買い求めるお客さんに「ついでに寄席でも見ていっておくれやす」と声をかけた。
「もって生まれたやさしい気質もあったんでしょうね。楽屋では芸人さんの世話までしていました。
当時、夫婦2人は通天閣の展望台に上って、大阪の街を見渡した。そのときせいが泰三に向かって、「大将(泰三)、大阪にはぎょうさん寄席がありますけど、いつかみんな吉本の寄席にしていきましょな」と、夢を語ったという。それから寄席経営は着実に大きくなっていった。
2年目には芸人プロダクションである『吉本興行部』を立ち上げ、3年目には寄席小屋を5軒に増やした。落語が衰退し、色物が好まれるようになった時代の潮流に乗ることができたのも、成長の要因となった。寄席を次々に増やしていたころ、夫婦の住まい兼事務所の大きな土間には、「吉本」と書かれた提灯がずらりと並べられていた。
「火の見櫓の鐘が鳴ると、使用人やら事務員が社名の書かれた法被を着て、それらを一斉に持ち出すんです。おばあちゃんはいの一番に火事現場に飛んで行きはって、ぎょうさん作ったおにぎりを『吉本でっせ』と困っている人たちに配るんです」(圭比子さん)
関東大震災の際は、慰問団を結成し、船に救援物資を積んで東京に向かった。吉本の寄席に来てくれないような名人クラスの落語家に毛布を届けると、いたく感動され、その後吉本の寄席にも出演してくれるようになった。
「テレビもCMもない時代、商売に役立つ宣伝もしないとあかんと思っていましたが、根底には人情味があるんですね」(圭比子さん)
人々の「笑顔」のために尽くし続けたせいの人情物語が、いま朝ドラでよみがえる!