好評を博しているNHK連続テレビ小説『虎に翼』。米津玄師の主題歌『さよーならまたいつか!』も、これを後押ししています。


<主観的に曲を作らざるを得ない>従来の朝ドラ主題歌とは異なる新しい形

 女性の地位向上がテーマのドラマなので、男性である自分にオファーが来たことに戸惑いもあったと明かした米津。そこで、ふつうの“応援ソング”にしないために、<あくまで私事として、主観的に曲を作らざるを得ないと思ったんですよね。>(『音楽ナタリー』2024年4月12日)と語っています。

 筆者は、この「主観的」というキーワードに、朝ドラ主題歌の新しい形と、米津玄師というソングライターの揺るぎない核が重なり合っているのだと思いました。

 従来の朝ドラ主題歌とは異なる『さよーならまたいつか!』の特徴とは何なのか? 過去の主題歌を振り返りつつ考えたいと思います。

ドリカムや絢香、AKB48の朝ドラ主題歌はポジティブな色付けの役割

 朝ドラといえば、なによりもさわやかなイメージ。一日の始まりをいい気分で迎えられるような曲調です。たとえば、DREAMS COME TRUEの『晴れたらいいね』(1992年『ひらり』)や絢香の『にじいろ』(2014年『花子とアン』)、AKB48の『365日の紙飛行機』(2015年『朝が来た』)などが浮かびます。


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 これらの曲は、主演女優の清新なイメージ、ドラマのトーン、ストーリーをポジティブに色付けする役割を果たしており、ここでの作曲者は注文された通りの商品を納入する職業人としての立ち位置になります。

 米津玄師の言い方を借りるならば、朝ドラ主題歌とは極めて“客観的に”作られたものがほとんどだと言えるでしょう。

伊藤沙莉や『虎に翼』と対等な緊張関係の『さよーならまたいつか!』

 しかしながら、『虎に翼』と『さよーならまたいつか!』の関係は、これに当てはまりません。米津玄師は、あくまでも自身のユニークな作家性を堅持したうえで、ドラマのカラーにアダプトさせる道を模索しているからです。

 前述の『音楽ナタリー』のインタビュー内で印象的だったのが、『虎に翼』という作品と女優・伊藤沙莉をつぶさに分析していることでした。

米津玄師の『虎に翼』主題歌はこれまでと全く違う!朝ドラ史上初の“応援ソング”じゃない新しい形である理由
吉田 恵里香 (作), 豊田 美加 (ノベライズ)『NHK連続テレビ小説 虎に翼 上』NHK出版
<主人公の寅子がエネルギッシュにずんずんずんずん進んでいく感じがあるんで、そこから四つ打ちみたいな小気味いいテンポで作っていかなきゃいけないんじゃないかと思った>とか、<まず主演の伊藤沙莉さんの声がすごくいいなと思ったんですよ。すごくゲインの効いた声というか、1回聞いたら忘れない独特な声をされている。
そこがすごく好きで、あの“ゲイン感”をこの曲に宿したいなというのを無邪気に考えていました。>という部分。

 つまり、米津は曲を劇の添え物ではなく、『虎に翼』、そして伊藤沙莉と対等な立場に置いている。その批評眼を自身の作風に反映させているのですね。こんな緊張感のある主題歌は朝ドラ史上初めてです。

従来の朝ドラ主題歌とは一線を画す筆圧の強さ

 実際、軽快なテンポの中に米津節とも言える細かな部分転調や瞬間的な不協和音が織り込まれています。口ずさめる親しみやすさと高度なミュージシャンシップのせめぎ合いは、他の追随を許しません。


 そして、怒りがモチーフになったと言うように、歌詞における筆圧の強さも、従来の朝ドラ主題歌とは一線を画している。

<したり顔で 触らないで 背中を殴りつける的外れ
 人が宣う地獄の先にこそ わたしは春を見る>

同じ傾向を持つ星野源『アイデア』との違い

 こうして、生存にかける熱いエネルギーを、暗鬱な言葉で表現するのもいつもの米津節。

 同じ傾向を持つ星野源の『アイデア』(2018年『半分、青い。』)にも、<生きてただ生きていて 踏まれ潰れた花のように にこやかに中指を>というフレーズがありますが、星野の場合は、よりマニフェスト的です。政治家のように聞き手に呼びかけて行動をうながす感覚があります。

米津玄師の『虎に翼』主題歌はこれまでと全く違う!朝ドラ史上初の“応援ソング”じゃない新しい形である理由
星野源『アイデア』
 星野源が「うちで踊ろう」ならば、米津玄師は“お前らは知らんが俺はうちで踊る”なのです。

 その点で、米津玄師は日本的な作家像を、より忠実にフォローしていると言えるでしょう。


米津玄師のヒット曲を貫く感性とは?

 昭和の文芸評論家、伊藤整(1905-1969)は、『近代日本人の発想の諸形式』という文章の中で、こう書いています。

<自分の生命が無に帰し、この世の自然と人間の総てが自分から失われるという意識を持っている人間にとっては、虫も木の葉も、嫌悪と憎悪とで今まで接していた人間も、悉く美しい本来の姿を現わす。なぜなら、その人間にとっては、その時、現世における利害の争いと虚栄の執着が失われ、自然と人とは、その単純な存在として意識されるからである。>(『近代日本人の発想の諸形式 他四篇』 伊藤整 岩波文庫 p.42)

米津玄師の『虎に翼』主題歌はこれまでと全く違う!朝ドラ史上初の“応援ソング”じゃない新しい形である理由
米津玄師『Lemon』
<暗闇であなたの背をなぞった その輪郭を鮮明に覚えている>(『Lemon』)や、<いつかみた地獄もいいところ>(『KICKBACK』)など。そして極めつけは、<歪んで傷だらけの春 麻酔も打たずに歩いた 体の奥底で響く 生き足りないと強く>(『馬と鹿』)』といったように、米津玄師のヒット曲には、驚くほどこの感性が貫かれていることに気づきます。生存する活力や権利を阻む障害に対する否定的なエネルギーを根拠とする、決定的な孤絶。

朝に聞けるテイストでありながら米津の本質は失わない『さよーならまたいつか!』

米津玄師の『虎に翼』主題歌はこれまでと全く違う!朝ドラ史上初の“応援ソング”じゃない新しい形である理由
米津玄師『さよーならまたいつか!』
 しかし、今回の米津はこれを歌い方や、歌詞で使う語句の響きも含めた音楽的な面から大人の態度で中和しているのです。

 歌詞の重たさと音楽が、良い意味で反比例している。
朝に聞けるテイストに心を配りながら、米津の本質である夜、闇の部分は失っていない。

 そして、それが『虎に翼』というドラマの、重層的な強さにつながっているのですね。

 米津玄師は、複雑な連立方程式を軽やかに解いてみせました。

米津玄師はまたひとつ大きなソングライターになった

 作家としての核は譲らず、しかし、“朝ドラ”ブランドを傷つけることもしない。

『さよーならまたいつか!』で、米津玄師はまたひとつ大きなソングライターになったのだと思います。

<文/石黒隆之>

【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。
『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4