
全米のみならず世界中を泣かせたり震撼させたりするハリウッド映画。次々に新作が公開されており、豪華なセットや素晴らしい技術に毎度驚かされるばかりである。
さて、何事にも初めてがあるように、ハリウッド映画にも初めての超大作とされる作品がある。
「映画の父」とも呼ばれるD・W・グリフィスが監督・脚本をつとめた『國民の創生』(1915年)そして『イントレランス』(1916年)だ。
特に『イントレランス』はアメリカ映画史に残る名作中の名作と名高く、高い芸術性、投じられた莫大な制作費、斬新なストーリー展開などは今なお語り継がれている。
そんなわけで今回は、見たことがある人もない人もD・W・グリフィスとその作品にまつわるエピソードなんかをチェックしてみようじゃないか。
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Intolerance (1916) Full HD Movie
【アメリカ映画史上初の超大作『國民の創生』】
D・W・グリフィスは、良くも悪くも有名な1916年のサイレント大作映画『イントレランス』を製作した立役者だ。
この映画はいろいろな意味でグリフィス自身の躁病的な部分とエゴを前面に押し出し、観る者に寛大さと無茶ぶりを要求した。
高さ90mものユダヤの壁やゾウの偶像が建ち並ぶ本物そっくりの都市を作ったり3000人以上のエキストラを雇ったりするためのとてつもない予算だけでなく、スキャンダル、理想、破壊の礎の上に築かれた作品だ。
ただの映画ではなく、ハリウッド映画の目覚めそのものといえるかもしれない。
それではまず、グリフィスの前作映画『國民の創生』について見てみよう。
南北戦争を舞台に、KKKを英雄、リンカーン大統領を指導力のないリーダーとして描いた作品で、おそらく今日アメリカでもっとも嫌われている映画かもしれない。
もともとは『The Clansman』というタイトルで、アメリカ史上初の "超大作" だったと歴史家のメルヴィン・ストークスは書いている。
それまでアメリカ映画にはおもに15分の1巻もののギャグ映画しかなかったが、『國民の創生』は12巻もあり、演技、音楽、マーケティングが一体となった前例のない大作だった。
好き嫌いは別として「誰もこんな映画を観たことがなく、その潜在力は否定できない」と、評論家のマージョリー・ローゼンは1973年に書いている。
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1947年、人種差別的な映画『國民の創生』を上映する、ニューヨーク、フラッシングの映画館の入り口で、デモを行う全米黒人地位向上協会(NAACP)のメンバーたち
【賛否両論を巻き起こしたグリフィスの大作映画がヒット】
また、これほどメディアと政治の間の危うい関係をさらした映画もほかにはほとんどないだろう。
『國民の創生』は初めてホワイトハウスや最高裁判所のために上映されたといってもいい映画で、KKKの活動を再燃させる原動力となった。
今でも『國民の創生』を上回る興行成績をあげたのは1997年の『タイタニック』、2009年の『アバター』だけだ。
識者たちはパーティでこの映画の関係者たちにやたらへつらい、世間からは称賛と非難の嵐が押し寄せた。
監督としてそして道徳をわきまえたアメリカ人として、グリフィスのキャリアはいくぶん危うい立場に追いやられた。
しかしこうした賛否両論の論争があったにもかかわらず(のおかげで)映画はヒットし、グリフィスは次の作品のための制限はなにもなくなったように感じたらしい。
さらなる大作を作らなくてはならなかったが人種差別の疑いへのどんな批判も黙らせるために、徹底的に "モラル" を強調したものでなくてはならず、その結果として『イントレランス』が生まれたのだ。
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グリフィス(帽子の男性)とハリウッドスターたち
【4つのエピソードをひとつにまとめた名作『イントレランス』】
グリフィスは、「 バビロンの滅亡」、「キリストの磔刑につながるユダヤ人の話」、「プロテスタント、ユグノーについてのフランスルネッサンスの話」、「資本家と労働者の間の対立を描く現代の話」の4つのエピソードをひとつの映画にまとめようとした。
つまり、お気楽に見られる映画ではない。グリフィスのエネルギーは彼が映画の核だと考えていたバビロン篇に特に注がれ、この映画の中でもとびきり最高の場面の着想を練り始めた。
ケネス・アンガーは有名な『ハリウッド・バビロン』の中で次のように書いている。
サンセットとハリウッドの通りが交わるところに、グリフィスたちは巨大なキノコのような台座の上に乗った漆喰のマンモス像を建てた。
エジプトの青空の下で行われるはずのベルシャザルの祝宴が、カリフォルニアの燃えるような太陽の下で繰り広げられる。
LAじゅうから集められた4000人以上のエキストラには、弁当、交通費込みで前代未聞の日給2ドルが支払われた。
アンガーは脚色の天才だったが『イントレランス』に関してはやけに正確で、大宴会のシーンだけで25万ドルかかったとしている。
1915年の国勢調査によるとこの年の庶民の標準的な税引き後の年収は687ドル。グリフィスのエキストラの費用だけで1万2000ドルかかっている。
戦車レースあり、巨大な王座や祭壇あり、空中庭園あり。その豪華さは宝石をちりばめたゴージャスな衣装をまとったエキストラたちのきらびやかなパレードによってさらに強調された。
映画を巡る騒ぎはスリリングなほどで、まわりの者は巨大なセットがどんどん大きくなっていくのを見つめていた。
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現場でのグリフィス
【影響力のあるハリウッド監督から一気に文無しへ】
ある日、それがぴたりと止まった。撮影が終わったのだ。
映画が公開されたとき、このセットをどうすべきなのか誰も真剣には考えていなかった。
笑える楽しい内容ではない3時間半もあるこの映画はさくっと一気に観られるものではなかった。
この映画のせいでグリフィスは文無しになり面目を失った。だが彼の造りあげたバビロンの町は、本人やLAを嘲笑うかのようにそのまま残っていた。
後になってみれば、映画は最新の技術や様式を駆使していたことがわかる。
カメラは必ずしもプロットを進めるためのショットやアングルを使わず、むしろ細部や雰囲気を醸し出すような撮り方だった。
視覚的にそれは申し分なかった。プロットはどう見てもとりとめもないもので、評論家がこの映画のことを中身より、スタイル重視だと言ったのは間違っていなかった。
だが、スタイル重視の映画がそんなに悪いことだろうか?昨今、そうした映画は劇場の傑作だとされることもある。
一方、究極の教訓話にもなった。わずか1年でグリフィスはハリウッドでもっとも影響力のある監督からほぼ文無しへと転落し、支援者に頼らざるを得なくなった。
『イントレランス』は彼の野望の頂点であり、通りで朽ち果てている夢の残骸にはびこった雑草が映画業界の飽きっぽさを象徴していた。
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『イントレランス』の唯一残っている完成予想図
【『イントレランス』のセットの一部が再開発で復元される】
この映画は、1923年にバスター・キートンの『恋愛三代記』によってパロディ化された。面白いことに気まぐれなハリウッドは、この映画のカムバックを歓迎した。
最初に建てられた『イントレランス』のセットは1922年に完全に破壊されたが、2001年のミレニアムのときLAのショッピングセンターがセットのデザインの一部を復活させた。
俗っぽいが確かに度肝を抜くような、ハリウッド&ハイランドというショッピングモールを再開発した。
どこかで聞いたことのある話のようだが、そのコンセプトは故レイ・ブラッドベリの傑作ディストピア小説『華氏451』(1953年)のアイデアだったようだ。
ブラッドベリは自分のことを "偶然の建築家" と呼んでいて、映画の歴史に敬意を表するやり方でLAのコミュニティ感覚をよみがえらせるために自分のアイデアを喜んで共有した。
1970年代にオープンした地元のグランデール・ガレリアの建築家チームは実際に中央の円形スペースを念頭に置き、商業地域を活性化させるためのブラッドベリの提案に留意したと言っている。
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(左から)グリフィス、カメラマンのG・W・"ビリー"・ビッツァー(カメラの後ろ)、ドロシー・ギッシュ(彼の背後からこちらを見ている女性)、台本を持っているカール・ブラウン、ミリアム・クーパー(横顔)
ブラッドベリは、
町は絶対に『イントレランス』のセットをよみがえらせるべきで、今度こそはそれを大切にしなくてはならない。
美しい白いゾウが乗った見事な巨大な柱のセットが、今、ハリウット&ハイランド通りの角に建っていて、世界中の人々がここを訪れる。
すべては、わたしがそれを建てるよう言ったからだ。将来、みんながここをブラッドベリ・パビリオンと呼ぶようになるといい
と死後に出版されたエッセイの中で書いている。
いかにもアメリカ的なKKKのヒット作『國民の創生』からショッピングモールのバビロン庭園の再現まで、まさに現代映画産業らしい進出方法だ。
ひとりの男のキャリアを締めくくる奇妙なやり方としても間違いなくハリウッド的といえるだろう。
また、あまり語られることのない映画業界の陰の職人たちへのオマージュとして、現代の私たちに『イントレランス』を褒めたたえよ、ということかもしれない。
References:Messy nessy chicなど / written by konohazuku / edited by usagi
記事全文はこちら:ハリウッドが泣いた!アメリカ映画史上初の超大作映画「イントレランス」にズームイン! http://karapaia.com/archives/52282830.html