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プロレス史上、テレビの最高視聴率は1963年5月24日に64.0%を記録した日本テレビの「WWA世界選手権 力道山VSザ・デストロイヤー戦」だ。
当時、日本中の小学校でプロレスごっこが流行った。
筆者は大学生時代にホテルニューオータニでバイトしていた 頃に、赤坂見附の弁慶橋交差点でホンダシビックに乗って信号待ちをするデストロイヤーを見かけたことがる。この話をした時に、当時、友達は誰も信じなかった。あんな小さな車にデストロイヤーが乗れるはずはないと言うのが大方の意見だったのだ。
ザ・デストロイヤーは当時日本に定着していた。1972年10月ジャイアント馬場の全日本プロレスの旗揚げに参加し、日本に長期滞在した。1973年10月、「金曜10時!うわさのチャンネル!!」(日本テレビ)に出演し、レギュラーとなった。売れっ子となった「白覆面の魔王」は自家用車を運転して都内を走り回っていたのだろう。
筆者のアルバイトとは、ホテルニューオオタニ内に新設されたばかりのスポーツクラブのボーイ。会員は政治家、財界人、芸能人、プロスポーツ選手等であった。クラブ内には、ジム、プール、サウナ、浴室、マッサージルーム、ラウンジが完備されていた。
顧客はみんな紳士で大声や乱暴な素振りはついぞ、見かけたことは無かった。メンバーさんの中に、往年の「燃える闘魂」アントニオ猪木や五輪柔道金メダリスト「オランダの赤鬼」ウィリアム・ルスカがいた。彼らは筆者のようなボーイにも紳士的に接するのでホテルマンにも人気があった。
バイト終わりに、ホテルの先輩に連れられてラーメンに行った時のこと、先輩の一人が「ニューラテンクォーター」と言う大きなネオンサインの看板を指さし、
「ほら、あれが力道山が刺された(1963年12月8日の事件)ナイトクラブだ」
と教えてくれた。その数キロくらい先に赤坂の街に真っ赤にライト・アップされた東京タワーが見えた。
地下鉄赤坂見附の方向に歩くと大交差点にでる。信号待ちの長い車の列が青信号になった瞬間、先頭からヘッドライトが灯っていく。それは光の帯が走るように見えた。大都会東京ならではの夜景であった。1970年代のことである。
テレビ界もプロレス界もまさに「黄金時代」を向かえようとしていた。東京の街も高層都市化が始まり繁栄し始めた時だった。
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