高橋秀樹[放送作家]

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 「この番組は当たるなって感じるときは、必ずテレビ制作者のいい言葉がある」

大将(萩本欽一)が言う。

 「フジテレビでの話だ。
俺はどうしても午後9時台でバラエティをやってみたかった。月曜日の9時枠は、ずーっとドラマをやってきて20年年間、1本も当たりがなかった。そこでやらして欲しいってお願いした。そしたら、当時の偉い人が、そこは20年耕してきた畑です、違う種を巻いたらやり直しになりますっていう」
 「俺は、そうですねって納得しちゃった。この人に無理を通しても駄目になるって思ったから」

でも、大将は諦めなかった。昭和55年(1980年)になっていた。


 「当時の制作局長は日枝(久=現・フジテレビ会長)さん。やらしてくれたの。でもコケた(『欽ちゃんの9時テレビ』)コケたから、日枝さんにいった。やっぱり耕した畑ダメにしちゃいました、やめますって。そしたら日枝さんがねいうの。『種変えたんでしょ、そこの畑は10年間欽ちゃんに預けるから、半年ごとに変えるとしても20回やれるから、そのうち1回くらいは当たるでしょって』」
 「この言葉を聞いた時、はまったな、当たるなって、思った」

それが『欽ドン!良い子悪い子普通の子』である。


 「でもまだ内容は考えてないから、こういう時は考えなきゃいけない。それを考えるのはやっぱり、家に限る。二宮の家に戻った。ここは星が見えるからねえ、星はいい」
 「とにかく、家族には部屋に入ってくるなって行って、こもって考えた、アイディアのかきなぐりが原稿用紙で15センチ位の厚さになった」
 「それを竹島(達修=チーフ・ディレクター)ちゃんに渡して、これやるから、お願いって」

竹島さんたちは、そのアイディアを番組の形にするべく奔走した。出演者は全部オーディションで選ぶ。完全な素人にはしない。
少し芝居のできるやつ、かっこいいやつ、動けるやつ、喋れるやつ。中原理恵柳葉敏郎、山口良一、生田悦子、松居直美と言った面々が揃った。

 「最初から、番組はできていた。普通はやりながら作っていくもんだけど、この番組は、最初から面白かった、そういうのは俺も初めての体験」

こうして、大将は視聴率100%男と呼ばれる道を歩んでゆく。

 「番組が。こういう『当たりに行く道』に乗っかった時には他のことをしちゃダメ」

僕が尋ねる

 「他のことって、番組に余計なことしていじっちゃダメっていうことですか」
 「違う違う、他のこと、全部、全部しちゃダメ」

どういう意味だろう。


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